第三長久丸(だいさんちょうきゅうまる)は釜石鉱山田中製鉄所で使用された貨物船。大正時代前期に当時困難とされていた東京の港へ初めて入港した。

第三長久丸
基本情報
船種 貨物船
船籍 日本の旗 日本
所有者 田中長兵衛
運用者 田中長兵衛
母港 釜石港/岩手県
航行区域 近海
信号符字 JTGL
改名 Dingadee[1]→第三長久丸
経歴
竣工 1883年
要目
総トン数 633トン
載貨重量 770トン
長さ 55.17m(181フィート)
8.53m(28フィート)
深さ 4.14m(13フィート7インチ)
満載喫水 4.27m(14フィート)
デッキ数 1 [2]
出力 350馬力(実馬力)
速力 8.0ノット
最大速力 9.5ノット[3]
旅客定員 10名(一等5室)
その他 ボート数 3(救命艇 2)
支水壁数 4
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船歴

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本船は鋼製の汽船であり、アイルランド(当時はイギリス領)の港町コーヴで1883年(明治16年)に造られた[3]。建造から20年を過ぎた1904-1905年頃に中古船として東京の田中長兵衛に買われ「Dingadee」から「第三長久丸」へと改名。船名は船主・田中長兵衛の「長」と釜石製鉄所所長・横山久太郎の「久」を由来とする[4]

日露戦争下の日本では民間の船が数多く徴用された為、不足を補おうと外国船を購入した船主も多かった。戦時中に買われた外国船は社外船[注 1]だけで124隻(約25万1千トン)に及び、本船もそのうちの1隻である[注 2]。第三長久丸は田中所有の鉱山と製鉄所がある岩手県釜石の港を拠点に、室蘭港や横浜港などを行き来し貨物を輸送した[6][7]

1924年(大正13年)に田中鉱山が経営破綻した後は函館の林康三の所有となっている[8]

東京初入港

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明治期の東京にはまだ船を受け入れるための港湾設備が整っておらず、東京へ送る物は全ていったん横浜港で艀船に乗せ替えて回漕していた[9]。東京府知事・松田道之や初代東京市長・松田秀雄などにより何度か築港計画が持ち上がったものの、横浜港を擁する神奈川県の反対などもあり実現には至らなかったとされる。それでも将来的な築港のため、1906年(明治39年)12月から1911年(明治44年)まで第一期工事が行われていたが未だ港として機能する状況には遠く、一千トン級の船の通行を目標に1911年(明治44年)から1917年(大正6年)にかけて行われた第二期工事でやっと芝浦区域の浚渫(深化)が進んだ[10]

そうした中で大正初期に艀賃が急騰。田中が東京で船の取扱いを任せていた荒川敬は自分の請負賃よりも高くなってしまった艀賃[注 3]を前に、東京へ直接船を着けることを考えた。血気盛んな荒川は帝都東京が港を持たないのは馬鹿げたことであり、今回を機として直接東京へ船を乗り入れるべきだと田中に直談判。至って豪放な性格だった田中もこれを快諾した。持ち船の中から比較的小型の第三長久丸(633t)と勢徳丸(1,440t)[12]を交互に乗り入れることが決まり、そして1917年(大正6年)実際に第三長久丸を芝浦に入港させたのが、東京の港に汽船が着いた第一号とされる[9][11]

荒川は初めての入港に際し水先案内人の手配から燃料の補給など様々準備をしたが、最も重要なのが船内仲仕であった。そこで横浜の人夫請負業・安室勝五郎[13](勝太郎)から25人ほど人を借りて芝浦の木賃宿に住まわせその任に当てた[注 4]。同年秋には東京湾台風が猛威を振るい、在港中だった勢徳丸が護岸に衝突し側面を破損。浜御殿沖の浅瀬に自ら乗り上げることで沈没は免れたが、詫びる荒川に対し船主の田中はただ笑って頷いたという。その後、1920年(大正9年)頃から日本郵船の小笠原諸島行きの船が入港するようになり、他社の船も徐々に増えていった[11]。東京最初の埠頭である日の出埠頭が完成してその運用が始まるのは関東大震災後の1926年(大正15年)3月のことである。

備考

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本項では第三長久丸と同じく釜石鉱山田中製鉄所で使われていた船舶(第五長久丸については別頁)について記述する。

長久丸

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鋼製汽船の長久丸(1,238t、原名:Mira)は1896年(明治29年)にノルウェーの首都クリスチャニアで建造された[15]。1904年(明治37年)に中古船として購入され、以後は石炭や銑鉄を運ぶ貨物船として使用される。1908年(明治41年)3月23日の午前2時、函館の恵山岬沖で北海道炭鉱の秀吉丸(646t)が日本郵船の陸奥丸(915t)に衝突。亀裂部から大量の海水が流入し、間もなく陸奥丸は沈没した[注 5]。偶然付近を通りかかった際に非常汽笛を聴いた長久丸はボートを出し朝まで救助に当たったが、ついに一人の生存者も遺体も見つけることは出来なかった[17]

1915年(大正4年)1月7日。長久丸は1,400tの石炭を積んで室蘭を出発し、その後行方不明となった。大湊要港部所属の駆逐艦・が捜索に当たったが発見に至らず。長久丸の船具が漂着したことから沈没したと推定される[注 6]

第二長久丸

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第二長久丸は1882年(明治15年)にスコットランドの港町ダンディーで建造された鉄製汽船[19](928t、原名:Aviemore)[1]で、日露戦争(1904-1905年)の頃に中古船として購入された。1906年(明治39年)1月22日に岩手県域で多数の漁船が難破した際には、釜石警察署より要請を受けた釜石製鉄所所長・横山が直ちに第二長久丸派遣を決定。船長の中村栄太郎らは懸命に捜索に当たり、遭難中の乗員36名を救助した。翌1907年5月にはこれを表彰し、銀杯一箇が釜石鉱山田中製鉄所に授与されている[20]

海難救助の10年後にあたる1916年(大正5年)、8月28日午後2時に大阪を発ち積荷[注 7]に運んでいた第二長久丸は、深夜12時ごろ香川県仲多度郡与島灯台の東岸を通過する際、兵庫県の乾合名会社が所有する大孤山丸(3,216t)と衝突。船は見る間に浸水して沈没した[注 8]。なお、大孤山丸は同日午前3時半頃に関門海峡にて神戸海上汽船の関西丸とも衝突してこれを沈没させており、一日に二隻を沈没させる稀有な事例として報じられた[21]

長安丸

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1878年(明治11年)に東京石川島で造作された総トン数131tの木造帆船[22]。釜石の田中製鉄所では1892年(明治25年)以降、10数隻の帆船[注 9]を揃えて近海及び京阪や北海道に至る輸送網を築いたが、これはその内の一隻。長安丸という船名については長兵衛の「長」と長男・安太郎(後の二代目長兵衛)の「安」が由来と考えられる。1894年(明治27年)12月、石炭輸送のため室蘭を発った長安丸は、暴風雨のため青森県三沢の砂ヶ森海岸に乗り上げ、後に沈没したとされる[25][26]

脚注

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注釈

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  1. ^ 日本郵船大阪商船の2大海運会社の船を社船、それ以外の船を社外船と呼んだ。
  2. ^ 日露戦争中の1904年、田中長兵衛は長久丸(1896年ノルウェー製造、総トン数1238t、原名:Mira)[5]を購入。続いて第二長久丸(1882年英国製造、総トン数928t、原名:Aviemore)と第三長久丸も買い入れ、3隻を共に釜石製鉄所での任に当てた。
  3. ^ 荒川の請負賃が2円50銭なのに対し、1917年(大正6年)の京浜間の艀賃は1トン3円50銭。1912年(大正元年)頃は1トン60銭だった[11]
  4. ^ 当時安室のところに身を寄せていた中村義恵[14]はこの際来京し、この人員が後に荷役会社・中村組の基となった。この頃は他に船もなく、月に2,3隻のみの入港で25人前後を維持するのは経営上実に大変だったと荒川は後に語っている。
  5. ^ 陸奥丸は前日午後6時に青森港を発ち室蘭への航行中。衝突後、船長・河野は混乱する乗客らを可能な限り秀吉丸に移乗させたが、乗員乗客含め289名中226名(二等客室3名、三等客室91名、北海道移住者120名、船員11名、郵便局員1名)が死亡する大事故となった[16]
  6. ^ この時船と共に船長の近藤喜三郎以下28名の船員も消息不明となっている[18]
  7. ^ 釜石製鉄所から九州製鉄所に納付されるマンガン80t、呉に届ける銑鉄112t、釜石製鉄所に運ぶマンガン鉱石425t、銑鉄200t、クローム煉瓦6千個など[21]
  8. ^ この際、第二長久丸の船員8名が行方不明となり、翌日全員の死亡が確認された。
  9. ^ 1894年(明治27年)11月に宮城県石巻で製作された第二長安丸(83t)[23]及び1895年(明治28年)9月に岩手県釜石で製作の第三長安丸(182t)[24]も含まれる。なお長安丸は全て木造帆船であり、第二第三については船主が釜石製鉄所所長の横山久太郎となっている。

出典

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  1. ^ a b 萩原正彦『傭船契約論』(4版)海文堂出版、1980年7月、114頁。NDLJP:11990366/64 
  2. ^ 『日本貨物船明細書』三井物産船舶部、1921年、71頁。NDLJP:964685/163 
  3. ^ a b 『日本汽船件名録』(4版)日本汽船件名録発行所、1916年、155頁。NDLJP:945984/88 
  4. ^ 堀内正名『横山久太郎:近代日本鉄鋼業の始祖』岩手東海新聞社、1957年、34頁。NDLJP:2984768/29 
  5. ^ 萩原正彦『傭船契約論』(4版)海文堂出版、1980年7月、112頁。NDLJP:11990366/63 
  6. ^ 『海商通報』(1186)号、海商社、1906年7月、8頁。NDLJP:1893027/8 
  7. ^ 『海商通報』(1957)号、海商社、1911年7月、4頁。NDLJP:1893798/4 
  8. ^ 三井物産株式会社船舶部 編『日本貨物船明細書』(昭和3年度)海事彙報社、1928年、80頁。NDLJP:1145551/184 
  9. ^ a b 『東海運四十年史』東海運社史編集室、1960年、27頁。NDLJP:2492492/37 
  10. ^ 『社団法人東京港運協会三十年史』東京港運協会、1982年6月、4-6頁。NDLJP:11916935/49 
  11. ^ a b c 『東京港』5 (4) (47)、東京港振興会、1941年4月、12-14頁。NDLJP:1548798/8 
  12. ^ 『日本汽船件名録』海運週報編輯部、1913年、725頁。NDLJP:945974/377 
  13. ^ 『大衆人事録』(昭和3年版)帝国秘密探偵社、1927年、ヤ118頁。NDLJP:1688498/791 
  14. ^ 『日本放送大観』日本放送大観発行所、1931年、641頁。NDLJP:1213346/1053 
  15. ^ 『日本汽船件名録』海運週報編輯部、1913年、109頁。NDLJP:945974/69 
  16. ^ 青森県議会史編纂委員会 編『青森県議会史』(明治24-45年)青森県議会、1965年、1012頁。NDLJP:3022536/528 
  17. ^ 高等海難審判庁 編『海難審判史』海難審判研究会、1964年、369頁。NDLJP:2507077/198 
  18. ^ 『保険銀行時報』(705)号、保険銀行時報社、1915年2月、15頁。NDLJP:1581678/8 
  19. ^ 『日本汽船件名録』(4版)日本汽船件名録発行所、1916年、150頁。NDLJP:945984/86 
  20. ^ 日下真佐市 編『大日本現代頌徳名鑑』(4版)大日本現代頌徳名鑑刊行会、1921年、199頁。NDLJP:970698/138 
  21. ^ a b 「言語道断の大孤山丸 一日に二汽船を衝突沈没せしむ」『朝日新聞』1916年8月30日、東京版 朝刊5頁。
  22. ^ 逓信省管船局 編『日本船名録』(明治29年)帝国海事協会、1912年、97頁。NDLJP:901325/50 
  23. ^ 逓信省管船局 編『船名録』(明治31年12月31日現在 増訂2版)津田万吉、1899年7月、229頁。NDLJP:805241/116 
  24. ^ 逓信省管船局 編『船名録』(明治31年12月31日現在 増訂2版)津田万吉、1899年7月、262頁。NDLJP:805241/133 
  25. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第3467号、211頁、1895年1月22日。NDLJP:2946737/4 
  26. ^ 岡田益吉『東北開発夜話 続』金港堂出版、1977年11月、239頁。NDLJP:11976063/123