笠井城
概要
編集笠井城は、資料が無く城史は不明だが、長篠の戦いで討死した武田家臣の笠井満秀(高利、肥後守)が笠井城主と伝えられるため、少なくとも満秀の時代には存在していたとみられる。
城の遺構は残っておらず、神社(御殿山稲荷)の参道入口に「笠井城址」の碑が立っている。この碑は明治29年(1896年)に笠井に来住した尾張国の画工・司馬老泉の書で、明治33年(1900年)に建てられたものである。
関連項目
編集外部リンク
編集- 笠井城 - ウェイバックマシン(2011年1月6日アーカイブ分)
- 【C-SZ049】笠井城跡 - この記事には笠井城が「1458(長禄2)年には存在したと考えられている」とあるが、長禄2年は笠井定明(備後守)が近隣の寺院(定明寺)を創建した年であり、築城を示す史料は見当たらず、推測の域を出ない。