竹垣 純信(たけがき すみのぶ/じゅんしん、1881年明治14年)2月 - 1917年大正6年)6月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関中佐[1]第一次世界大戦地中海に派遣された第二特務艦隊の第11駆逐隊機関長として戦死した。

竹垣 純信
竹垣純信
生誕 新潟県
死没 地中海
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1904年 - 1915年
最終階級 海軍機関中佐
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生涯

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新潟県出身。父・竹垣純一は越後長岡藩士で、戊辰戦争で武名があった。長岡中学在学中、父が事業に失敗し竹垣家は経済的苦境に陥る。竹垣は苦学団を頼ることとなり徒歩で東京へ向かった。逓信省雇いとなって自ら学資を稼ぎ、成城学校から海軍機関学校へ進む。1904年(明治37年)卒業(12期)。

海軍少機関士(少尉相当官)に任官し、「吾妻」乗組みとして日露戦争に参戦。第3艇隊附、「須磨」・「厳島」乗組み、「橋立」・「香取」・「吾妻」の各分隊長を務めたほか、海軍水雷学校を修了している。

薩摩」分隊長として第一次世界大戦を迎え、青島の戦いに参戦。「金剛」分隊長に転じ、機関少佐へ進級。第11駆逐隊機関長に転じた。同駆逐隊は4隻からなり、竹垣の乗艦は「」であった。

第11駆逐隊は第二特務艦隊に属し、地中海方面で連合国艦船の護衛に従事した。4月26日、「榊」は第11駆逐隊の僚艦「」 とともに総員3266名、武器弾薬を満載した英国客船・「トランスシルバニア」の護衛にあたった。イタリア・サナポ沖で同艦は雷撃を受け撃沈されたが、 「榊」、「松」はイタリア駆逐艦らと協同し乗員約3000名を救助した。艦は撃沈されたが、多くの人命を救ったことに連合国は感謝し、駆逐隊司令・横地錠二ほか将兵27名がイギリス国王ジョージ五世から叙勲された[2]。竹垣は殊勲章を授与されている[3]

同年6月11日[4]、「榊」・「松」は護衛任務を終え、マルタ島への帰路で潜望鏡を発見。オーストリア=ハンガリー帝国潜水艦U-27であった。艦長・上原太一少佐は回避命令を発したが、U-27の魚雷が命中して「榊」は大破したが(艦首切断)、沈没は免れた。戦死者は艦長の上原、竹垣以下59名であった[5]。マルタ島に「第二特務艦隊戦没者之碑」がある。

人物像

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機関科士官としての竹垣は実務能力に優れ、石炭の経済的消費法を発見し賞賛を受けた。「金剛」時代に機関学校教官への異動を、艦側で引き止めている。体格雄偉、酒豪であり、また剣道では海軍部内で杉七郎と並び、両大関と称された人物である[6]。地中海へ赴く際は、父に「演習に行く」と葉書を出し、それが絶筆となった。

栄典

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脚注

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  1. ^ 第2特務艦隊 戦没者納骨式記事(大正七年)C10080073100”. アジア歴史資料センター. 2018年1月3日閲覧。
  2. ^ 『海戦史に学ぶ』「地中海のドイツ潜水艦戦と日本」
  3. ^ 『忠勇列伝』p40
  4. ^ 『回想の日本海軍』坂野常善「第一次世界大戦における第二特務艦隊地中海遠征記」では6月10日となっている。
  5. ^ 『官報』第1470号、大正6年6月26日。
  6. ^ 『忠勇列伝』pp42-43
  7. ^ 『官報』第6387号「叙任及辞令」1904年10月12日。
  8. ^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
  9. ^ 『官報』第7949号「叙任及辞令」1909年12月21日。
  10. ^ 『官報』第748号「叙任及辞令」1915年2月1日。

参考文献

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  • 水交会編『回想の日本海軍』原書房
  • 忠勇顕彰会編『忠勇列伝』
  • 野村實『海戦史に学ぶ』文春文庫