立憲政体の詔書
立憲政体の詔書(りっけんせいたいのしょうしょ、旧字体:立憲󠄁政體ノ詔書、明治8年4月14日太政官第58号布告)は、1875年(明治8年)4月14日に明治天皇が発した詔書。明治8年太政官布告第58号により布告された。五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した。御誓文ノ趣旨ニ基ク立憲政體樹立ニ關スル詔書[1]、元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸次立憲政体樹立ノ詔勅[注釈 1]、漸次立憲政体樹立の詔勅、元老大審二院を置くの詔などとも呼ばれる。
立憲政体ノ詔書 | |
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日本の法令 | |
通称・略称 | 立憲政体樹立の詔 |
法令番号 | 明治8年太政官第58号布告(輪廓附) |
種類 | 憲法 |
公布 | 1875年4月14日 |
主な内容 | 元老院、大審院、地方官会議の設置 |
条文リンク | 法令全書 |
沿革
編集1875年(明治8年)1月から2月にかけて、明治政府の大久保利通・伊藤博文と、在野の木戸孝允・板垣退助・井上馨らとの間で、大阪会議が開催され、合意が成立して政治体制の改革と木戸・板垣の政府復帰が約束された[注釈 2]。
草案
編集木戸・板垣は同年3月、参議に復帰し、大久保・伊藤とともに大阪会議の合意事項に基づいた政体改革案「立憲政体の御布告案」を作成し、太政大臣三条実美に提出したと言われている。
ただ現存する草案は太政官公文の用紙に書かれている。内容は詔書と同じく最終行に翼賛の語が使用されており、ただし書きは「詔書御布告案 中村大外史 直に印書局へ付し印刷して 原案は内史本局留むと云う」となっている[2]。
大日本帝国憲法発布記念章叙勲者には中村氏が複数おり[3]、太政官正院の「中村大外史」は、大蔵省出仕の啓蒙思想家で『英国律法要訣』翻訳者の中村正直(1832年生)、あるいは東京裁判所裁判官で後の日本法律学校評議員、大審院部長・刑事局裁判官の中村元嘉(1838年生)、または外務省官僚の中村博愛(1844年生)、または叙勲者ではないが、のちの太政官内閣書記官長で裁判官の中村弘毅(1838年生)などである可能性がある[4]。
この草案は4月14日、明治天皇の詔書の形で「立憲政体の詔書」あるいは「元老院、大審院、地方官会議を設置し漸次立憲政体樹立の詔勅」として発表された。
内容
編集この詔書に表題はなく、法令全書の目次では「立憲政体の詔書」と名付けられている。
以下、詔書の内容を引用する(原典は法令全書。旧字体・カタカナで句読点・濁点なし)。
原文
編集現代仮名遣い・常用漢字・ひらがな
編集朕、即位の初首として群臣を会し、五事を以て神明に誓ひ、国是を定め、万民保全の道を求む。幸に祖宗の霊と群臣の力とに頼り、以て今日の小康を得たり。顧に中興日浅く、内治の事当に振作更張すべき者少しとせず。朕、今誓文の意を拡充し、茲に元老院を設け以て立法の源を広め、大審院を置き以て審判の権を鞏くし、又地方官を召集し以て民情を通し公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に其慶に頼んと欲す。汝衆庶或は旧に泥み故に慣るること莫く、又或は進むに軽く為すに急なること莫く、其れ能朕が旨を体して翼賛する所あれ。
明治八年四月十四日
御璽
現代語訳
編集私は即位の初めに群臣を集めて五箇条の誓文を神々に誓い、国是を定め万民保全の道を求めた。幸いに先祖の霊と群臣の力とによって今日の落ち着きを得た。かえりみるに、再建の日は浅く、内政の事業には振興したり引締めたりすべき点が少なくない。私は今、五箇条の誓文の主意を拡充し、ここに元老院を設けて立法の源泉を広め、大審院を置いて審判権を確立し、また地方官を召集して民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、皆とともに喜びを分かちたい。皆も、守旧することもなく、また急進することもなく、よくよく私の主旨に従って補佐しなさい。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ “御誓文ノ趣旨ニ基ク立憲政體樹立ニ關スル詔書(明治八年四月十四日):文部科学省”. www.mext.go.jp. 2023年7月14日閲覧。
- ^ #太政官。「留」は原書では「畱」。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」。1889年12月2日。
- ^ 「前大審院部長」、国鏡社『立身致富信用公録 第13編』。1903年。
参考文献
編集- 立憲政体の詔書御布告案 - 国立公文書館デジタルアーカイブ(太政官)
- 元老院、大審院、地方官会議を設置し漸次立憲政体樹立の詔勅 - 国立公文書館デジタルアーカイブ