穆紹
経歴
編集穆亮の子として生まれた。9歳で員外郎の位を受け、東宮で侍学し、太子舎人に任じられた。11歳のときに、琅邪長公主を妻に迎え、駙馬都尉・散騎侍郎の位を受け、京兆王元愉の下で文学をつとめた。宣武帝の初年、通直散騎常侍の位を受け、高陽王元雍の下で友となった。502年(景明3年)、父が死去すると、頓丘郡開国公の爵位を嗣ぎ、散騎常侍の位を受け、主衣都統を兼ねた。秘書監・侍中・金紫光禄大夫・光禄卿に転じ、さらに衛将軍・太常卿となった。まもなく使持節・都督冀瀛二州諸軍事・衛将軍・冀州刺史に任じられたが、老母のために固辞して、勅命にさからったかどで免官された。後に中書令に任じられ、七兵尚書に転じ、殿中尚書となった。母が死去したため、辞職して喪に服した。衛大将軍・左光禄大夫・中書監として再起し、再び侍中となり、本邑中正を兼ねた。
525年(孝昌元年)、霊太后は元叉からの兵権の剥奪を計画していたが、実行をためらっていた。穆紹はその計画に積極的に賛成して後押しし、功績により特進を加えられた。穆紹は元順とともに宮中での宿直の任をつとめていたが、元順と対立して辞職し、家に帰った。車騎大将軍・開府・定州刺史に任じられたが、固辞して受けなかった。またも侍中に任じられたが、病と称して出仕しなかった。528年(建義元年)、河陰の変が起こったが、穆紹は官にいなかったために害を免れた。
孝荘帝が即位すると、穆紹は爾朱栄に召し出された。邙山で爾朱栄と面会したが、拱手拝礼しなかった。孝荘帝が洛陽に入ると、穆紹は尚書令・司空公に任じられ、爵位は王に進められ、侍中の任を加えられた。爾朱栄が葛栄討伐の軍を起こすと、上党王元天穆が先鋒として懐県に進軍し、楊椿が右軍を率い、穆紹は後軍を率いることとなった。出立する前に葛栄が捕らえられたため、取りやめられた。まもなく王から再び公に降格された。529年(永安2年)、元顥が洛陽に入ると、穆紹は兗州刺史に任じられた。東郡まで赴いたところ、元顥が敗北したため、再び孝荘帝に帰順した。
531年(普泰元年)、都督青斉兗光四州諸軍事・驃騎大将軍・開府・青州刺史に任じられたが、赴任しなかった。9月13日、洛陽の修政郷文華里で死去した[2]。享年は51。侍中・都督冀相殷三州諸軍事・大将軍・尚書令・太保・冀州刺史の位を追贈された。諡は文献といった。