穂積親王
673?-715, 奈良時代の皇族。天武天皇の第五皇子。万葉二期歌人、『風雅和歌集』に1首入集
(穂積皇子から転送)
穂積親王(ほづみしんのう)は、天武天皇の第五皇子[1]。文武天皇末から元明天皇朝を通じての知太政官事。
穂積親王 | |
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時代 | 飛鳥時代-奈良時代 |
生誕 | 不詳 |
薨去 | 和銅8年7月27日(715年8月30日) |
別名 | 穂積皇子 |
官位 | 一品知太政官事 |
父母 | 父:天武天皇、母:蘇我赤兄娘大蕤娘 |
兄弟 | 高市皇子、草壁皇子、大津皇子、忍壁皇子、穂積親王、長皇子、弓削皇子、磯城皇子、舎人親王、新田部親王、他 |
妻 | 大伴坂上郎女 |
子 | 上道王、境部王 |
経歴
編集前半生は不明な点が多い。持統朝までは持統天皇5年(691年)に封500戸を与えられた(このときの冠位は浄広弐)こと以外、詳細な事跡は不明である。また『万葉集』に基づき、藤原氏の血を引く但馬皇女(藤原不比等の姪。一説では高市皇子妃)との密通が露顕し、一時左遷されていたとの推測もある。
文武朝に入り、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて三品となる。大宝2年(702年)12月の持統上皇の死去に際して作殯宮司を、翌大宝3年(703年)10月の葬儀では御装長官を務めている。
慶雲2年(705年)5月に異母兄・忍壁親王が死去すると[2]、同年9月にその後任として知太政官事に任ぜられる。文武朝末から元明朝を通じて太政官の統括者となり、左大臣・石上麻呂、右大臣・藤原不比等とともに政権を支えた。和銅8年(715年)正月に一品に叙せられるが、母の大蕤娘に先立って同年7月27日に死去。享年は40代前半と推定される。最終官位は知太政官事一品。
群馬県にある多胡碑には、和銅4年(711年)3月9日の日付とともに「太政官二品穂積親王」と名前が刻まれている。また、穂積親王を高松塚古墳の被葬者とする説もある。
和歌
編集『万葉集』に4首の歌が残っている。以下に挙げる、そのうちの1首は和銅元年(708年)の但馬皇女薨去を悼んで読んだ歌。
- 降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに
次の1首は後年になって酒宴の席で過去の出来事を思い出して詠んだ歌。
- 家にありし櫃に鑠さし蔵めてし 恋の奴のつかみかかりて
官歴
編集『六国史』による。