稲荷山古墳出土鉄剣

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣

稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)は、1968年埼玉県行田市埼玉古墳群稲荷山古墳から出土した鉄剣1983年に同古墳から出土した他の副葬品とともに国宝に指定された。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも称される(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)。

稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。 稲荷山古墳出土鉄剣(国宝) 埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。
稲荷山古墳出土鉄剣(国宝)
埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。

所有者は日本国(文化庁)で、埼玉古墳群近くの埼玉県立さきたま史跡の博物館内で、窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。(約73.5cm)

銘文発見の経緯

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1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月[1])。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。

当初、古墳の発掘は愛宕山古墳で行われる予定であったが、崩壊の危険があるため稲荷山古墳に変更された。

銘文の内容

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(表)

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

漢字六書の仮借から銘文の漢字一字を読み一字とした場合、書かれている文字に読点を打って解釈すると、

辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(以上は表面)」

「其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(『カク、ワク』+『カ、クワ』+『タ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺[6]、シキの宮に在る時、吾[7]、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(以上は裏面)」

特色

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115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。

また、1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(当時は白川県)にある江田船山古墳からは銀象嵌銘大刀が出土した。この鉄刀の銘文にも当時の大王の名が含まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の部分も字画が相当欠落していた。この銘文は、かつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文が発見されたことにより、「獲□□□鹵大王」 を「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。このことから、つまり5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される[8]

金象嵌の材質

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2000年と翌2001年に実施された金象嵌の材質調査(蛍光X線分析)によって、象嵌に使われている金には銀の含有量が少ないもの(10%ほど)と多いもの(30%ほど)の2種類あることが判明した。その2種類の金は、表は35字目、裏は47字目から下の柄側には銀の含有量が少ないもの、切先側には銀の含有量が多いものが使われている。2種類の純度の違う(結果として輝きの異なる)金を鉄剣銘文の上下で使い分けた理由は不明である[9]

考証

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年代

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「辛亥年」は471年が定説であるが一部に531年説もある。

通説通り471年説をとると、ヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城郡には含まれていることにはなり21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となっている。

田中卓は、斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、記紀で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした[10]

オホヒコ

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銘文にある「オホヒコ」について、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命」とみなす考えがある[11]

記された人物の関係について

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一般的に、「児〇〇」はその前の人物の子供であることを示しているとされているが、『海部氏系図』が親子関係に拘らず、国造の地位を継承した族長を「児〇〇」と記していることから、鉄剣の銘文に記された人物達は親子関係ではないとする説も存在する[12]

「杖刀人」について

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乎獲居臣の「杖刀人首」とは「上番先で組織された杖刀人の中での首」ということであり、出身母体の長を意味するわけではない[13]。上述の「杖刀」に関する訓の比定(タチワキ)から後の律令制時代における武官の一つの「帯刀舎人(タチワキトネリ)」の前身とする説がある。

復元

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2007年平成19年)、メトロポリタン美術館特別顧問の小川盛弘、刀匠の宮入法廣らが鉄剣の復元を企画。刀身彫刻師、研師など各分野の職人が賛同し、同年2月に制作を開始した。しかし、鉄の素材や鍛えの回数、象嵌、砥石などで問題が噴出し、試作や実地調査を繰り返して当時に近い物を割り出すなどの末に、ようやく2013年(平成25年)6月に完成、11月13日に埼玉県に寄贈した[14]11月14日埼玉県民の日)から、埼玉県立さきたま史跡の博物館で特別公開された。

脚注

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  1. ^ "空白の五世紀" 大きな発見 稲荷山出土の鉄剣から、雄略天皇の名解読『毎日新聞』1978年9月19日夕刊1面
  2. ^ 宮崎市定は著書(宮崎市定『謎の七支刀 : 五世紀の東アジアと日本』中央公論社〈中公新書 703〉、1983年、124-126頁。 NCID BN01476307全国書誌番号:84006787https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001643191-00 )で、「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるので「記」を氏族名と見て、「記のヲワケの臣」が人名であるとした。
  3. ^ (宮崎 1983, p. 131-134)で古事記中巻・崇神天皇のオホタタネコの系譜の最後に一人称「僕」が現れる例を挙げて「余」を「われ」と読み、「名はカサヒ。余は其の児にして名はヲワケの臣」と読んだ。
  4. ^ 「武蔵の古代豪族と稲荷山鉄剣銘」、吉川弘文館、昭和60年。武蔵国造の乱に現れる当地を支配していた笠原直使主に比定している(佐伯有清 1985)。
  5. ^ 「タチワキ(=帯刀)」と訓むとする説(井上光貞大野晋)、「ハセツカべ(=丈部)」と訓むとする説(佐伯有清)などがある。
  6. ^ 「寺」(政庁)と「宮」の重複も不自然で、「寺」は「侍」(サムライ、貴人に仕えること)の略であるとして「奉事し来たりて今のワカタケル大王に至る。(私ヲワケの臣が)侍してシキの宮に在りし時」と読んだ(宮崎 1983, p. 134=136)。
  7. ^ 「吾」の繰り返しも稚拙であり、本来は「為」の字であったとして「天下を治むるを佐けんが為に」と読んだ。宮崎は、最初に発表されたレントゲン写真では「為」に近い形であった文字に補修者が手を加えて「吾」という文字を創作したと述べ、写真を載せて非難した(宮崎 1983, p. 141=146)。
  8. ^ 『詳説 日本史図録 第5版』山川出版社、2011年、p. 29。
  9. ^ 早川泰弘, 三浦定俊, 大森信宏, 青木繁夫, 今泉泰之「埼玉稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣の金象嵌銘文の蛍光X線分析」『保存科学』第42号、2003年3月、1-18頁、doi:10.18953/00003598NAID 120006333381 
  10. ^ 田中卓『邪馬台国と稲荷山刀銘』国書刊行会〈田中卓著作集 ; 3〉、1985年。ISBN 4336016127NCID BN00352932https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I2752001-00 
  11. ^ 吉村武彦『シリーズ日本古代史2 ヤマト王権』(岩波新書)p.82。
  12. ^ 義江明子「鉄剣銘「上祖」考:氏族系譜よりみた王統譜形成への一視角 (古代における生産と権力とイデオロギー) : (古代の権威と権力の研究)」『国立歴史民俗博物館研究報告』第152巻、国立歴史民俗博物館、2009年3月、49-77[含 英語文要旨]、doi:10.15024/00001706ISSN 02867400NAID 120005748729 
  13. ^ 篠川賢、大川原竜一、鈴木正信編著『国造制・部民制の研究』(八木書店、2017年)
  14. ^ <国宝鉄剣>6年半かけ忠実に復元 埼玉県に寄贈毎日新聞、2013年11月13日、同日閲覧 - 2013年11月13日付けのアーカイブキャッシュ

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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