稲田 安良(いなだ やすよし、1901年明治34年〉4月27日 - 1981年〈昭和56年〉11月26日[1])は、陸軍歩兵大佐)。正五位勲四等

稲田 安良
いなだ やすよし
生誕 1901年4月27日
日本の旗 日本 宮崎県
死没 (1981-11-26) 1981年11月26日(80歳没)
日本の旗 日本 宮崎県
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1916年 - 1945年
最終階級 陸軍大佐
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略歴

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1901年明治34年)4月27日北諸県郡山之口において稲田安彦の長男として生まれる。父・稲田安彦は元陸軍中尉であり、都城中学校兵式体操の教官を務めていたこともある。1916年大正5年)9月、都城中学校の第2学年から広島陸軍地方幼年学校に入校し、同校を経て、同年12月7日に陸軍士官学校本科を卒業(陸士第35期生)した。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第64連隊附となる。

1925年(大正14年)5月、歩兵第13連隊附に補せられる。1926年(大正15年)10月、陸軍歩兵中尉に進級、1928年昭和3年)1月、熊本陸軍教導学校学生隊附となる。同年7月、陸軍歩兵大尉に進級し、歩兵第47連隊中隊長に補せられ、満州派遣、吉林省敦科附近警備討伐に従事した。1933年(昭和8年)2月、熱河作戦に参加。赤峰建平付近の警備に当たり、関東軍兵站監部北票出張所の所長を務めた。

1934年(昭和9年)12月、歩兵第11旅団副官に補せられ、第6師団軍法会議判士に任じられた。1936年(昭和11年)3月、第5師団司令部附被仰付、広島陸軍幼年学校創設委員、同校生徒監に補せられた。1938年(昭和13年)3月、陸軍歩兵少佐に任せられ、広島幼年学校副官に補せられる。1939年(昭和14年)11月、歩兵第64連隊大隊長に補せられ、満州国ハイラル区に駐屯し、ノモンハン事件後の同正面警備を担任した。

1941年(昭和16年)3月、陸軍予科士官学校生徒隊中隊長に補せられ、同年10月、陸軍歩兵中佐に進級した。1943年(昭和18年)3月、教育総監部課長 兼 陸軍将校生徒試験常置委員主事、陸軍兵科少尉候補者試験委員主事などの任務に補せられた。1944年(昭和19年)3月、教育総監部高級副官に補せられる。1945年(昭和20年)6月、陸軍歩兵大佐に任せられ、歩兵第343連隊長に補せられた。

1945年(昭和20年)8月15日終戦。同年10月、京都連隊区司令部附となり、11月30日に待命、予備役に編入されたが、12月1日に即日臨時招集を受け、京都地方世話部文書課長を命ぜられ、高等官三等第一復員官に任命された。

脚注

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  1. ^ 『偕行 1月号』76頁。

参考文献

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  • 『偕行 1月号』偕行社、1982年。

関連項目

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