稲生 正令(いのう まさよし[1]享保20年〈1735年〉 - 享和3年〈1803年〉)は、江戸時代中期の武士備後国三次の住人。のち安芸国広島藩藩士。通称は武太夫、のちに忠左衛門と改める。幼名は平太郎。寛延2年(1749年)の体験に基づくという『三次実録物語』を著す。

生涯

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享保20年(1735年)、備後国三次郡の三次藩士の稲生武左衛門の長男として誕生。

数え年12歳の時、弟の勝弥(かつや)が誕生してからまもなくして両親を失う。武左衛門には40過ぎまで子がなく、一族の中山源七の次男の新八を養子としていたため、稲生家の家督はこの義兄の新八が継いだ。しかし、4・5年後に新八は病にかかり、実家へ戻ってしまった。そのため、16歳の平太郎が弟を養育し、権平という家臣を一人かかえることになった[2]

稲生家が仕えていた三次藩は浅野氏広島藩の支藩であったが、享保5年(1720年)に藩主浅野長寔夭折のため廃藩となり、三次藩領は本藩に再吸収され、宝暦8年(1758年)旧三次藩士も広島の本藩に移籍となった。稲生家も広島に移住した。平太郎は元服して武太夫と改名し、御歩行組(おかちぐみ)として12石4人扶持の広島藩藩士になった。御広式御錠口(ごじょうぐち)を勤めた。

武太夫はのちに忠左衛門と名を改め、齢70近くにしてもなお気力も充実していたというが[3]、享和3年(1803年)に満68歳でなくなった。

1月7日には、広島市東区の國前寺では彼を祭る「稲生祭」が開かれている。また、三次市三次町の屋敷跡には、稲生武太夫の碑が建てられている。

國前寺本堂裏手の一画の、墓碑群の中の五輪塔の一つが、武太夫の墓である。

稲生物怪録

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稲生平太郎16歳の時、寛延2年(1749年)の5月末の夕方、隣家の三ッ井権八とともに、比熊山肝試し百物語をしたことがきっかけで、7月1日から30日間のうちに、彼らの身の回りで怪異現象が続出した。このときの彼の体験は、『三次実録物語』という書として記され、原本は広島藩在住の稲生武太夫の子孫に伝えられてきている。妖怪の親玉、山本太郎左衛門から貰った木槌は享和2年(1802年)に平太郎の手により國前寺に納められ、現存している。

また、柏正甫(かつら せいほ)という武太夫の同役の武士が、夜を徹して本人から詳しい話を聞き出して、天明3年(1783年)、『稲生物怪録』として書き留めた。これを国学者、平田篤胤寛政11年(1799年)に筆写して秘蔵し、文化8年(1811年)に門下生に校訂させた。篤胤の校訂本が元になって、読物や絵巻となり、明治以降、泉鏡花巖谷小波の小説、折口信夫俄狂言の題材となった。また、稲垣足穂によって、現代語訳されたりもした。

稲生武太夫を祭っている稲生神社(広島市南区)には、荒俣宏京極夏彦水木しげるも作品取材のために足を運んでいる。

松山騒動八百八狸物語

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江戸末期の講釈師田辺南龍が松山藩のお家騒動を元に怪談に仕立てた『松山騒動八百八狸物語』では、稲生武太夫が芸州の剣客として登場する。小野二郎右衛門道場の高弟として城主側に付き、宇佐八幡宮から授かった「神の杖」を用いて808匹のタヌキを率いる化け狸「隠神刑部」を久万山に封じた[4]

脚注

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  1. ^ 『三百藩家臣人名事典』第6巻、新人物往来社、1989年
  2. ^ 『稲生物怪録』巻の上「稲生平太郎出生の事 并三津井権八が事」より
  3. ^ 『稲生物怪録絵巻詞書』(堀田家本)より
  4. ^ 八百八狸 1983.

参考文献

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  • 『稲生物怪録絵巻-江戸妖怪図録-』、編者:谷川健一小学館、1994年。
  • 江崎俊平「八百八狸」『名城伝説』社会思想社〈現代教養文庫〉、1983年、257-258頁。NDLJP:12206844/130 

関連項目

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外部リンク

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