稲本白鵞
稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - 1920年(大正9年)[1])は、教育者であり書道家であもある。現在の岡山県井原市出身[1]。
いなもと はくが 稲本 白鵞 | |
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生誕 |
1887年 日本・岡山県後月郡山野上村 (現在の井原市野上町) |
死没 | 1920年(満33歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 |
順正女学校 (現・岡山県立高梁高等学校) |
職業 | 教育者・書道家 |
親 |
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経歴
編集生い立ち
編集1887年(明治20年)、稲本陽洲の長女として岡山県後月郡山野上村(現在の井原市野上町)に生まれる。精徳尋常小学校を卒業後、父を頼って高梁へ行き、尋常小学校を出ただけであったが、順正高等女学校の編入試験に合格し、1909年(明治42年)21歳のときに女学校を卒業する[1]。
女学校卒業後
編集1918年(大正7年)、31歳のとき福岡県朝倉高等女学校の教諭として赴任し、1920年(大正9年)には山口県女子師範学校教諭となる。父と同じく書道に優れ、この時代の日本女流三筆とまで謳われた。和歌においても歌集を発刊するなど、文才をもって父陽洲の志を継ぐものとして知られていたが、病に倒れ、満33歳、数え34歳の若さで亡くなる[1]。
脚注
編集[脚注の使い方]
- ^ a b c d “井原市の文化財・偉人・伝統芸能・昔ばなし”. mahoroba.city.ibara.okayama.jp. 2024年12月14日閲覧。