種子島久珍
種子島 久珍(たねがしま ひさみち、文政5年2月4日(1822年3月26日) - 嘉永7年1月3日(1854年1月31日)[1])は、薩摩藩(鹿児島藩)家臣、種子島氏24代当主。幼名は報七郎、初名は時珍、受領名は弾正。字は違うが養父・久道と名前の読みは同じである[2]。
生涯
編集薩摩藩の隠居であった島津斉宣の12男として江戸で生まれる。天保13年12月8日(1843年1月8日)、10代藩主の異母兄斉興の命により種子島氏を継ぐよう命じられ、生まれて初めて鹿児島へ向かう。種子島氏は先代当主・久道が死んでから当主不在が15年も続いており、報七郎は待望の養子であった。当初、種子島家側では先代当主の娘婿として報七郎を迎える予定であったようだが、久道の娘達は報七郎が養子に決まる前に婚期を迎えて他家に嫁いでしまっていた。そのため、養母の松寿院の肝煎りで島津家有力一門の加治木島津家・島津久徳[3]の次女・信を正室に迎えた。
その後、種子島氏家臣団は前藩主の息子を養子に迎えたことを根拠として、他の島津家御一門衆同様に種子島氏の家格を引き上げるよう陳情し、要望は入れられたようである[4]。
養子にきたときはまだ若年であったため、政務は松寿院が行っていた。信との間に子供にも恵まれた矢先の嘉永7年に急逝。享年33。嫡子の久尚は生まれたばかりの乳児であったため、再び松寿院が種子島家の政務を司ることになる。
家族
編集参考文献
編集- 『種子島氏家譜』(『鹿児島県史料』家分け8所収)