秺侯
秺侯(とこう)は、紀元前1世紀から紀元1世紀の中国の前漢時代に封じられた列侯の一つである。封地は済陰郡の秺県だが、制度上、侯が封じられた土地は国というので、秺侯がいたときは秺国といった。紀元前91年から紀元前88年または紀元前87年まで、紀元前85年から紀元前42年まで、4年から23年頃までの3期にわたる。
歴史
編集はじめて秺侯になったのは、前漢の武帝につかえた商丘成である。征和2年(紀元前91年)7月癸巳に2120戸で秺侯に封じられた[1]。同年に皇太子劉拠が起こした反乱の鎮圧で力戦した功による[1]。3年後の後元元年(紀元前88年)6月、あるいは4年後の後元2年(紀元前87年)、商丘成は部下の罪に連座して自殺し、国を除かれた[2]。
次に立ったのは金日磾で、断絶をはさみながら前漢から新の時代まで続いた。『漢書』と『史記』(司馬遷死後の加筆部分)で違いが多い。『漢書』によれば、金日磾は武帝暗殺を阻止した功で始元2年(紀元前85年)に2218戸で秺侯に封じられ、1日後に病死した。まだ幼い金賞が嗣いだ[3]。42年後に子なくして死に、国は除かれた[3]。永光2年(紀元前42年)のことである[4]。『史記』によれば、金日磾は3000戸で秺侯に封じられ、昭帝によくつかえたためさらに3000戸を増した。死後、子の金弘が立った[5]。
前漢の末期に実権を握った王莽は、断絶した功臣の侯を子孫に継がせる政策を打ち出した。それにより秺侯も復活したが、これについては『漢書』の「景武昭宣元成功臣表」と「霍光金日磾伝」との間で異なる記載がある。「景武昭宣元成功臣表」によれば、元始4年(4年)に金日磾の曾孫金常が1000戸で封じられたが、王莽が敗れて絶えた[3]。「霍光金日磾伝」によれば、王莽の発案で秺侯になったのは、金賞の弟金建の孫、金日磾からは曾孫にあたる金当であった[6]
秺侯の人物
編集秺侯金氏の系図
編集金日磾 | |||||||||||||||||||||||||||
(男) | 金賞/金弘 | 金建 | |||||||||||||||||||||||||
(男) | |||||||||||||||||||||||||||
金当/金常 | |||||||||||||||||||||||||||