秦政明
略歴
編集大学生時代は、歌ごえ運動に没頭し(その頃からの知人に田川律がいる[2])、卒業後の1958年、クラシックのコンサートを主催する「大阪国際フェスティバル協会」入社[1][3]。
1962年、大阪国際フェスティバル協会から独立し、外タレの関西公演を取り仕切るイベンター会社、「アート・プロモーション」を興す[4]。
1966年7月、大阪労音に“フォークソング愛好会”を発足[5]。森山良子やアマチュア時代のザ・フォーク・クルセダーズらを集めて「フォーク・フォーク・フォーク」という催しを行っていた頃に高石ともやに出会う[2]。高石のやっている音楽に衝撃を受け、高石を自宅に居候させながら、二人三脚で活動を始める。
1967年9月、アート・プロモーションとは別に、高石ともやを中心とした「高石事務所」を大阪に設立[6]、中川五郎、ザ・フォーク・クルセイダーズが合流。
1968年、東芝音楽工業から「帰って来たヨッパライ」をリリースする際、版権会社が必要となったため[7]、「アート音楽事務所」設立。1月に東京・原宿のセントラル・アパートの一室に高石音楽事務所の東京事務所も開設[8]。
1969年1月、アート音楽事務所より月刊誌『フォーク・リポート』発行。2月、関西フォークの一大拠点となった高石事務所所属のアーティスト作品をレコ倫を通さず自由にレコード配信しようと会員制レコードクラブ、「アングラ・レコード・クラブ(略してURC)」設立。
1970年1月、「高石事務所」を「音楽舎」に社名変更。
1978年、「音楽舎」をいとこの秦慎一郎に引き継ぎ退く[9]。日本古代史の研究に打ち込む[10]。
2003年3月没。
関連書籍
編集- 風に吹かれた神々: 幻のURCとフォーク・ジャンボリー(1987年6月1日、シンコーミュージック、鈴木勝生)
- 日本フォーク私的大全(1995年9月1日、筑摩書房、なぎら健壱)
- 五つの赤い風船とフォークの時代(2012年7月1日、アイノア、なぎら健壱)
- 日本のフォーク完全読本(2014年6月30日、シンコーミュージック、監修:馬飼野元宏)
- プレイガイドジャーナルへの道 1968~1973: 大阪労音 フォークリポート プレイガイドジャーナル(2016年5月20日、東方出版、村元武)
- 『イムジン河』物語 〝封印された歌〟の真実(2016年8月22日、アルファベータブックス、喜多由浩)
- URCレコード読本(シンコーミュージック、2020年7月31日)
- 表現の文化研究ー鶴見俊輔・フォークソング運動・大阪万博(2023年9月15日、新曜社、粟谷佳司)
- 関西フォークとその時代: 声の対抗文化と現代詩(2023年10月27日、青弓社、瀬崎圭二)
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 「初期フォークレーベル写真集/資料日本ポピュラー史研究 初期フォーク・レーベル編」黒沢進著、SFC音楽出版、1986年12月15日発行、21ページ
- ^ a b 「初期フォークレーベル写真集/資料日本ポピュラー史研究 初期フォーク・レーベル編」黒沢進著、SFC音楽出版、1986年12月15日発行、14ページ
- ^ “URCレコードについて "WOODYBLUES" アコースティックギター Support Shop”. guitar--parts.net. 2024年10月22日閲覧。
- ^ “みねやの二階 '73をめぐる冒険(9) 秦政明と後藤由多加”. mushi646.blog.fc2.com. 2024年10月22日閲覧。
- ^ “受験生ブルース〜日本のフォークソングの源流を創った男、高石ともやの偉大な足跡”. TAP the POP. 2024年10月22日閲覧。
- ^ “www -関西ロック年表-”. radiodaze.g2.xrea.com. 2024年10月22日閲覧。
- ^ 「日本のフォーク完全読本」シンコーミュージック 、2014年6月30日発行、29ページ。
- ^ “漠然とした大阪カルチャー認識(音楽編)(2018年『ASK ZINESTERS』#2)|bxjp”. note(ノート) (2021年2月5日). 2024年10月22日閲覧。
- ^ 「初期フォークレーベル写真集/資料日本ポピュラー史研究 初期フォーク・レーベル編」黒沢進著、SFC音楽出版、1986年12月15日発行、13ページ
- ^ “九州王朝説から転じた理系の古代史研究家による強引な聖徳太子論:半沢英一「聖徳太子法皇倭王論」 - 聖徳太子研究の最前線”. goo blog. 2024年10月22日閲覧。