秋田三一
秋田 三一(あきた さんいち[1]、旧姓・武光、1895年(明治28年)3月22日[2] - 1987年(昭和62年)9月18日[3])は、日本の政治家(貴族院議員)[1][4][5]、山口県多額納税者[5][6]、実業家。神戸近海汽船代表取締役[2]。
人物
編集山口県防府市出身[2]。生家の武光家は防府天満宮で代々大宮司を務めた。武光信雄の三男で、下関の秋田寅之介の養子となる[5][6][7]。山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)[8]、第五高等学校を経て[8]、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法科)卒業[6][9][注 1]。
三井銀行横浜支店に入り、彦島船渠常務取締役を経て秋田汽船に転じ、代表取締役となる[5]。材木商海運貿易鉱業を営む[5][6]。山口県多額納税者に列し、1939年(昭和14年)貴族院議員に互選され[5]、同年9月29日[10]から研究会に属して活動し[1]、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[3]。
戦後は、秋田商会会長、日本汽船社長、柏木体温計社長、山口県商工経済会会頭などを務めた[8]。趣味は剣道、尺八[5][6]。宗教は真宗[5][6]。住所は兵庫県芦屋市平田町[2]、山口県下関市東南部町[5][6](現南部町)。
家族・親族
編集- 秋田家
- 養父・寅之介(1875年 - 1953年、旧姓・秋富、秋田松次郎の養子、秋田商会社長[5]、山口平民、衆議院議員[7])
- 妻・梅子(1899年 - ?、養父・寅之介の長女)[5][7]
- 長男・博正[2][4](1918年 - 2011年)
- 同妻(兵庫、八馬兼介の娘)[4]
- 次男・公正[11](1921年 - 2016年、秋富久太郎の養子となる。)
- 親戚
脚注
編集注釈
編集- ^ 『昭和山口県人物誌』47頁では東京商大卒業。
出典
編集- ^ a b c 『議会制度七十年史 第1』176頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月6日閲覧。
- ^ a b c d e 『大衆人事録 第二十三版 西日本編』あ78頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』183頁。
- ^ a b c 『豪閥 地方豪族のネットワーク』385 - 393頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第13版 上』ア69 - 70頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第14版 上』ア69頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月22日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第7版』あ103頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月23日閲覧。
- ^ a b c 『昭和山口県人物誌』47頁。
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年』学士及卒業生姓名 法学士 法律学科82 - 83頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月22日閲覧。
- ^ 『官報』第3823号、昭和14年9月30日。
- ^ a b 「人事興信録 第19版 上」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 「大衆人事録 第10版」国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
編集- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年』東京帝国大学、1913 - 1924年。
- 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年。
- 広瀬弘『大衆人事録 第二十三版 西日本編』帝国秘密探偵社、1963年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 中西輝磨『昭和山口県人物誌』マツノ書店、1990年。
- 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。