秋山 四麿(あきやま よつまろ、1885年明治18年)12月 - 1947年昭和22年)5月15日[1])は、日本教育者

秋山四麿

経歴

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東京府出身。秋山恒太郎の四男[2]1908年(明治41年)、東京高等師範学校を卒業[2]石川県立金沢第一中学校教諭、山口県立山口中学校教諭、青森県師範学校教諭、和歌山県立和歌山高等女学校校長、愛媛県立大洲中学校校長、愛媛県立今治中学校校長、東京府視学を歴任[2]東京府立第三中学校校長となり、江戸川中学校校長を兼ねた[3]

戦後は日本体育専門学校(現在の日本体育大学)校長を務めた[4]

脚注

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  1. ^ 『茗渓会七十年史』茗渓会、1952年、140頁。 
  2. ^ a b c 人事興信録 1943.
  3. ^ 日本官界名鑑 1942.
  4. ^ 文部省調査局編『教育要覧』時事新報社、1948年、p.345。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(上)』人事興信所、1943年。 
  • 日本官界情報社編『日本官界名鑑 昭和十七年版』日本官界情報社、1942年。 
公職
先代
東京府立第三中学校長
広瀬雄
東京都立第三中学校
1943年 - 1945年
東京府立第三中学校長
1930年 - 1943年
次代
鹿谷義一
先代
(新設)
東京府立江戸川中学校
1941年 - 1943年
東京府立第十六中学校長
1940年 - 1941年
次代
武井亮吉
先代
若月岩吉
愛媛県立今治中学校
1923年 - 1928年
次代
北郷二郎
先代
新田覚二
愛媛県立大洲中学校
1920年 - 1923年
次代
上田光曦
先代
和歌山県日高郡立実科高等女学校長
橋本常彦
和歌山県立日高高等女学校
1919年 - 1920年
和歌山県日高郡立高等女学校長
1918年 - 1919年
和歌山県日高郡立実科高等女学校長
1917年 - 1918年
次代
市古由太郎