秋富 由利夫(あきとみ ゆりお、1950年9月13日-)は、佐賀県出身のプロゴルファー

秋富 由利夫
Yurio Akitomi
基本情報
名前 秋富 由利夫
生年月日 (1950-09-13) 1950年9月13日(74歳)
身長 162 cm (5 ft 4 in)
体重 57 kg (126 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県
経歴
2014年11月7日現在
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来歴

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小倉商業高校卒業。

小学5年生の頃からゴルフのグラブを握り、中学時代は器械体操[1]をやるが、その頃に鍛えたの強さがロングドライブの糧になる[1]

麻生飯塚ゴルフ倶楽部で藤井義将に弟子入りし[2] [3]、162cmと小柄ながら師匠の藤井ばりの広いスタンス、大きなスイングが特徴であった[4]。同じ所属プロで藤井の弟子であった藤池昇友利勝良とのラウンドで腕を磨き、友利は秋富から小技を盗もうとした[5]

1975年に6回目の挑戦でプロ入りし[1]1976年からはアジアサーキットに参戦[6] [7]

1976年の香港オープンでは初日に5バーディー、1ボギーでコースレコードタイの66をマークし、謝敏男  中華民国)に2打差付けて首位[8]に立つが、2日目には74を叩いて、通算140で2位へ後退[9]

1977年タイランドオープンでは前日首位[10] [7]に立って迎えた最終日にマーティ・ボーエン  アメリカ合衆国)、追い上げてきた竹安孝博[10] [7]と三つ巴のサドンデスプレーオフを争い[11]、延長7番ホールでパー4を打って優勝[6]。賞金4300ドル日本円にして130万円を獲得[10] [7]

プロ初優勝を海外で飾ると、1979年には九州オープン鈴木規夫の6連覇を阻止して初優勝し[12]、同年から1981年まで3連覇[13]を達成。

1981年にはホームの麻生飯塚で行われた西日本アマ・プロゴルフトーナメント(プロの部)で優勝[2]するが、賞金ランキングは1980年の31位が最高位であった。シード30位をほぼ手中にしていたが、猛追する藤木三郎に僅か10万円の差で逆転されてこの順位になった[4]

1980年の阿蘇ナショナルパークオープンでは初日を藤井久隆内田繁草壁政治鷹巣南雄と並んでの首位タイ[14]でスタートし、最終日には鷹巣と並んで2位タイ[15] [16]に終わった。

1982年新潟県オープンでは山本善隆・謝敏・森憲二・鈴木規に次ぐと同時に牧野裕と並んでの5位タイ[17]大京オープンでは青木功横島由一中山徹泉川ピートに次ぐ6位[18]に入った。

1983年にはには同年からJPGA公認競技となり、テレビ中継が始まったミズノオープン出口栄太郎中嶋常幸・内田・謝敏に次ぐと同時に青木功藤木三郎と並ぶ5位タイ[19]かながわオープンでは最終日に68をマークし、東聡河野和重に並ぶと同時に湯原信光矢部昭中村忠夫豊田明夫中村通を抑えて河野高明の2位タイ[20]に入った。

1983年には28試合出場でベスト10以内に5回[1]入ったが、最終戦前も40位でボーダーラインにいて、下位選手のターゲットとなっていた[21]。結果的に40位で九州では鈴木規に次いで2人目のシード権を獲得し、1984年には九州ゴルフ界で最も活躍した選手に送られる第10回グリーン・ハット賞を受賞[1]

1985年から松永カントリークラブでプロ・アマ・研修生により行われている「ミッドサマーオープン」[22]では1990年三好隆渡辺司と並んでの3位タイ、1991年には渡辺・宮田孝誠を抑えて優勝、1994年には堀川昌利と並んでの3位タイに入った[23]

1986年KSB瀬戸内海オープンでは中村稔中川泰一宮本康弘に次ぐ4位[24]ペプシ宇部で牧野と並んでの5位タイ[25]札幌とうきゅうオープンでは鷹巣、デビッド・イシイ(アメリカ)と並んでの7位タイ[26]に入る。

1987年のKSB瀬戸内海オープンではマイク・ハーウッド  オーストラリア)、中村と並んで高橋勝成の2位タイ[27] [28]富山県オープンでは芹澤信雄須貝昇に次ぐと同時に井上久雄と並んでの3位タイ[29]関西プロでは上野忠美白石達哉・中村忠・吉野展弘と並んでの5位タイ[30]、大京オープンではブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、イシイ・田中泰二郎・謝敏・飯合肇と並んでの8位タイ[31]に入る。

1988年の関西プロでは三上法夫と並んで倉本昌弘の2位タイ[32]1989年の札幌とうきゅうオープンではロジャー・マッカイ&テリー・ゲール(オーストラリア)と並んでの7位タイ[33]、NST新潟オープンでは水巻善典井戸木鴻樹と並んでの9位タイ[34]に入る。入江勉とペアを組んだアコムダブルスでは6位タイ[35]、ミズノTOKYOオープンでは最終日に66をマークして江本光と並んでの2位タイ[36]に入った。

1993年のペプシ宇部ではエドアルド・エレラ  コロンビア)と並んでの8位タイ[37]に入り、1994年にはクレインカップ真庭オープンで優勝[38]

1995年のアコムインターナショナルで井戸木と並んでの9位タイ[39]に入ったが、これがレギュラーツアーでの最後の十傑入りとなった。

シニア転向後の2003年は8試合に出場してキャッスルヒルオープン4位タイ、日本シニアオープン7位タイなどで賞金ランク15位としてシード復活を果たした[4]2004年はキャッスルヒルで久々に優勝争いに加わったが、結局高橋に逃げ切られ2位タイに終わった。日本シニアオープンで予選落ちするも、アデランスシニア11位タイ、日本プロシニア18位タイなど着実に賞金を重ね賞金ランク15位に入りシード権を守った[40]

2007年日本オープン[41]を最後にレギュラーツアーから引退し、2021年の関西プロゴールドシニアでは初日に5バーディー3ボギー、70ストロークのエージシュートで単独首位に立ち、試合では自身初のエージシュート達成[42]を決める。前半をイーブンで折り返し、10番、11番で連続バーディー、12番をボギーとし、16番でバーディーを奪い、2アンダーとした[42]。スコア提出後に仲間から言われて気付いたが、プライベートでは何度か達成していた[42]

イシイは親しいプロとして真っ先に秋富の名前を挙げており、秋富はイシイがまだ日本語もよく分からずツアーで孤立していた時からよく声をかけ、食事などに誘っていた[43]。イシイが冷やかし半分に「よくそんな小さな体でプロになったね。大きかったらチャンピオンになったでしょうにね」と言った[43]際、秋富は「デビッド、人間には二つの生き方がある。自分のありのままを認めてベストを尽くすか、自分以外のものに憧れて一生を終わるか。俺は自分のありのままの中でベストを尽くすことにしているんだ」と助言[44]。秋富の助言には大きなインパクトがあり、イシイは後に「すべてそこからスタートしたように思いますよ。自分がやれることをやるのが本当の意味でのベストを尽くすことなんだということを日本で教えてもらったのですから。」と振り返っている[44]

主な優勝

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レギュラー
  • 1979年 - 九州オープン
  • 1980年 - 九州オープン
  • 1981年 - 九州オープン、西日本アマ・プロ(プロの部)
  • 1991年 - ミッドサマーオープン
  • 1994年 - クレインカップ真庭オープン
海外
  • 1977年 - タイランドオープン
シニア
  • 2000年 - キョーエイ産業鷹の巣シニアオープン

テレビ番組

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  • 『で〜ちゃんのぶらっと金曜日』「ぶら金ゴルフ」(テレビ宮崎[45] [46]
  • 「秋富プロのゴルフ熱中塾!!」(テレビ宮崎)

出典・脚注

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  1. ^ a b c d e 日外アソシエーツ「スポーツ人名事典 新訂第3版」、2002年1月1日ISBN 4816917012、p9。
  2. ^ a b 麻生飯塚ゴルフ倶楽部のあゆみ History
  3. ^ ジャンボ生みの親、“玄海の荒法師”藤井義将氏が死去 - ゴルフ総合サイト ALBA Net
  4. ^ a b c 2004年シニア選手紹介
  5. ^ あの頃ボクは若かった 昭和の履歴書 vol.28 -友利勝良-
  6. ^ a b “Akitomi wins nail-biting sudden death”. The Straits Times (Singapore): p. 26. (7 March 1977). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19770307-1.1.26 16 March 2020閲覧。 
  7. ^ a b c d 【日本男子の海外挑戦記・昭和編㉜】1974年以降、アジア・サーキットは日本選手の修行の場に
  8. ^ 毎日新聞縮刷版p239 昭和51年4月9日朝刊15面
  9. ^ 毎日新聞縮刷版p273 昭和51年4月10日朝刊19面
  10. ^ a b c 日刊スポーツ1977年3月7日秋富、プレーオフで優勝 タイ・オープン
  11. ^ “Three-way sudden-death decides Thailand Open”. St. Petersburg Times. Associated Press: p. 3C. (7 March 1977). https://www.newspapers.com/image/319000277/ 2023年1月18日閲覧。 
  12. ^ 鈴木規夫/NoRioSuZuKi | #50年の軌跡スポーツニッポン新聞
  13. ^ 歴代優勝者 九州オープンゴルフ選手権競技 1980 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  14. ^ 毎日新聞縮刷版p196 昭和55年4月6日朝刊18面
  15. ^ McCormack, Mark H. (1981). Dunhill World of Professional Golf 1981. Collins. pp. 172, 374–375. ISBN 0862540054 
  16. ^ 毎日新聞縮刷版p219 昭和55年4月7日朝刊17面「草壁が初優勝
  17. ^ 朝日新聞縮刷版p445 昭和57年7月12日朝刊19面
  18. ^ 読売新聞縮刷版p511 昭和57年12月13日朝刊17面
  19. ^ 第13回 1983年(昭和58年) 歴史|~全英への道~ミズノオープン|ゴルフ|ミズノ公式オンライン
  20. ^ 朝日新聞縮刷版p934 昭和58年7月25日朝刊18面
  21. ^ 【ニッポンゴルフ初物語】"第1回大京オープン"、29年前の壮絶なシード権争いを振り返る!
  22. ^ ミッドサマーの歴史 - 福山市
  23. ^ (広島西CC)145
  24. ^ 朝日新聞縮刷版p1266 昭和61年3月31日朝刊18面
  25. ^ フルリーダーボード ペプシ宇部トーナメント 1986 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  26. ^ フルリーダーボード 札幌とうきゅうオープン 1986 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  27. ^ 朝日新聞縮刷版p1243 昭和62年3月30日朝刊23面
  28. ^ McCormack, Mark H. (1988). Ebel World of Professional Golf 1988. Collins Willow. pp. 252, 464. ISBN 0002182831 
  29. ^ 朝日新聞縮刷版p796 昭和62年7月19日朝刊24面
  30. ^ フルリーダーボード 関西プロ選手権 1987 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  31. ^ フルリーダーボード 大京オープン 1987 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  32. ^ 関西プロ選手権 1988 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
  33. ^ フルリーダーボード 札幌とうきゅうオープン 1989 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  34. ^ フルリーダーボード NST新潟オープン 1986 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  35. ^ 毎日新聞縮刷版p217 平成元年11月6日朝刊21面「須藤・青柳組が優勝 アコムダブルス最終日
  36. ^ 朝日新聞縮刷版p1297 平成元年11月27日朝刊23面
  37. ^ フルリーダーボード ペプシ宇部トーナメント 1993 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  38. ^ 会社案内 - ENA GOLF
  39. ^ フルリーダーボード アコムインターナショナル 1995 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  40. ^ 2005年シニア選手紹介
  41. ^ 秋富 由利夫選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site of JAPAN GOLF TOUR
  42. ^ a b c <関西グランド・ゴールド/1R>グランドは倉本昌弘、ゴールドは秋富由利夫が単独首位
  43. ^ a b 久保田誠一『日本のゴルフ100年』、日本経済新聞社、2004年、ISBN 4532164702、p330
  44. ^ a b 『日本のゴルフ100年』、p331。
  45. ^ UMK テレビ宮崎 > 番組情報 > で〜ちゃんのぶらっと金曜日 > ぶら金ゴルフ 2014年11月7日閲覧。
  46. ^ 九州保健福祉大学 テレビ番組に出演します

関連項目

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外部リンク

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