福地 周夫(ふくち かねお、1902年(明治35年)6月5日 - 1996年)は、日本の海軍軍人珊瑚海海戦及び南太平洋海戦に「翔鶴」運用長として参戦し、その被害の局限化に成功した海軍大佐である。戦後は作家としても活動した。

福地 周夫
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1925年 - 1945年
最終階級 海軍大佐
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人物・来歴

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略歴

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珊瑚海海戦での翔鶴被弾状況

佐賀県出身。小城中学を経て海軍兵学校に進む。福地は52期生で、同期生に源田實内藤雄淵田美津雄などがいる。福地と期数が近い同郷の後輩には後に五・一五事件に関与する同窓の黒岩勇村山格之佐賀中学出身の藤井斉三上卓古賀清志がいたが、福地は藤井らの動きに気付いていなかった[1]駆逐艦」、海防艦対馬」乗組み、佐世保海兵団分隊長兼教官、戦艦榛名」分隊長などを務め、海軍航海学校を修了している。日中戦争勃発に伴い、陸軍輸送船団指揮官を務め、重巡洋艦足柄」運用長として青島攻略戦に参加した。海兵教官を務めたのち1941年(昭和16年)8月「翔鶴」運用長に就任。真珠湾攻撃珊瑚海海戦第二次ソロモン海戦南太平洋海戦と歴戦している。のち戦艦「陸奥」運用長に転じるが、大動脈瘤の診断を受け(のちに誤診と判明)退艦した直後に「陸奥」は爆沈した。海兵運用科長、舞鶴鎮守府副官兼参謀を歴任し、1945年(昭和20年)9月大佐に進級。同年11月予備役編入となった。1947年(昭和22年)11月公職追放仮指定を受けた[2]

翔鶴運用長

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南太平洋海戦での消火活動

福地は「翔鶴」運用長として、その被害を局限したことで知られる。日本海軍の空母は爆撃に対する抵抗力が弱く、ミッドウェー海戦においてその弱点を露呈したが、「翔鶴」は同海戦に先立って米爆撃機により被弾した。珊瑚海海戦は世界初の空母同士の洋上対決で、「翔鶴」は三発被弾したが、福地の防火指揮は適切であった。その働きは獅子奮迅と称えられる[3]有馬正文は艦長就任後に福地に防火防水について学び、可燃物撤去、不要な爆弾の弾庫への収納、甲板に消火用ホースの準備などを行っている[4]。福地は応急指揮官として連合艦隊司令部の注目を集め[注 1]、出撃前日のミッドウェー攻撃部隊の准士官以上の前で講演を行った。珊瑚海海戦における空母「翔鶴」の爆弾命中、火災発生に対して、応急指揮官として執りたる処置及びその戦訓と題したこの講演は、空母艦内に飛行機がある状態で被弾した場合、1発で消火は困難であり、沈没は必至であるというものであった[5]。しかしこの講演中、主要指揮官幕僚は図上演習中で不在であり、講演の要点は伝わらずに終わる。福地はミッドウェー海戦の敗北に痛恨の思いを抱いていた。

著作

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  • 空母翔鶴海戦記 (出版協同社)
  • 海軍くろしお物語(光人社)
  • 海軍くろしお物語(続)(光人社)
  • 海軍美談よもやま物語 (光人社)
  • 予科練物語(予科練甲飛会本部)

脚注

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注釈

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  1. ^ 小田切政徳は福地に講話を行わせたのは山本五十六であると推測している。

出典

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  1. ^ 『海軍くろしお物語』「昭和維新の炬火を点ぜん」
  2. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、8頁。 
  3. ^ 『日本海軍戦場の教訓』第三章「珊瑚海海戦」
  4. ^ 悲劇の提督・南雲忠一中将 波まくらいくたびぞ』「死闘南太平洋」
  5. ^ 『海軍くろしお物語』「山本五十六鶴の一声」

参考文献

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