禁裏小番
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禁裏小番(きんりこばん)とは、中世から近世にかけて、公家が毎日交替(番)で天皇のいる禁裏御所に伺候・宿直する制度。
摂関家を除いた公家が元服直後の15歳から60歳まで勤務していた(ただし、職務の多忙や長年の功労から天皇の命により免除される者もいる)[1][2]。ただし、戦国時代には公家の地方下向や断絶によって人手不足になると、元服前の者も番を務めていた事例があり、江戸時代に入って後水尾天皇によって小番勤務は15歳以上と定められ、また新家設立によって人手不足が解消された後も非公式な御児の形で別途登用されて禁裏内部の雑用を務めた[3]。また、父子(当主と後継者)が同時に出仕している場合には、子には方領(給与代わりの土地)が与えられた[2]。また、太上天皇や皇太子に伺候する番もおり、それぞれ「院参衆」「東宮小番」と呼ばれていた[4]。
時代によって異なるが、5人から7人の輪番制で5番・6番・10番などに編成していたが、状況によっては全体の番数を減らしたり、臨時の加番を命じることで1つの番あたりの人数を増やして対応した[1]。各組には番頭を置き、小番奉行(武家伝奏による兼務が多い)によって管理されていた[1]。
「禁裏小番」という呼称が成立したのは室町時代とされている(小番の仕組みそのものの成立はそれ以前と考えられる)が、この時代には経済的困窮から番の職務を果たさない者も多かった。そのため、永享2年(1430年)に室町幕府の将軍足利義教の介入によって7か条からなる改革案が定めて、常に番のうちの誰かが御所に詰めている状態にすることとして、これに違反した者には所領没収などの措置が取られた[5]。江戸幕府も『禁中並公家諸法度』において「昼夜之御番」という表現で禁裏小番が朝廷に奉仕する公家の任務として、家業・学問と共に重視されるべきものと位置づけられていた[1]。
文明8年(1476年)、小番の中から近臣によって構成される内々(うちうち)番とそれ以外の外様番に分けられるようになり[1]、内々番と外様番では詰める番所なども異なっていた[2]。本来、内々と外様は時の天皇との親疎によって分けられていたが、時代が下るにつれて家ごとに固定化されて「内々」と「外様」は一種の公家の家格となった(完全に固定化された訳では無かったが)[2][4]。
寛文3年(1661年)、後水尾法皇は新たに即位する幼帝霊元天皇のために内々・外様の中から近臣となるべき者21名を抽出して新たな番を編成した。当初、新たな番は「奥之番」と呼ばれ、本来所属する内々番・外様番との掛け持ちであったが、寛文11年(1671年)に奥之番は本番所(内々・外様のそれぞれに設けられた詰所)への出仕が免除された。奥之番になった者は依然として内々・外様の名簿には名前が残されていたものの、新たな番に所属している間は事実上の専属となり、第3の小番である近習番(もしくは近習小番)が成立した[6]。
慶応4年(明治元年・1868年)閏4月、宮中三番と呼ばれていた内々・外様・近習の区別が廃止されて、「内番衆」と呼ばれるようになった[1][2]。
脚注
編集- ^ a b c d e f 母利『日本史大事典』
- ^ a b c d e 本田『日本歴史大事典』
- ^ 林大樹「近世公家社会における〈御児〉について」『人文』第16号(2018年)/改題所収:林「近世朝廷の御児について」『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) ISBN 978-4-642-04333-5 2021年、P93-95.
- ^ a b 林大樹「序章 近世天皇・朝廷研究の成果と本書の目的」『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) 2021年、P8-9.
- ^ 田沼『国史大辞典』
- ^ 林大樹「近世の近習小番について」『論集きんせい』第40号(2018年)/所収:林『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) 2021年、P140-146.
参考文献
編集- 田沼睦「禁裏小番」『国史大辞典 4』(吉川弘文館 1984年) ISBN 978-4-642-00504-3
- 母利美和「禁裏小番」『日本史大事典 2』(平凡社 1993年) ISBN 978-4-582-13102-4
- 本田慧子「禁裏小番」『日本歴史大事典 1』(小学館 2001年) ISBN 978-4-095-23001-6