神垣 雅行(かみがき まさゆき、1952年4月2日 - )は、大阪府大阪市[1]出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。

神垣 雅行
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市港区
生年月日 (1952-04-02) 1952年4月2日(72歳)
身長
体重
173 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1974年 ドラフト2位
初出場 1975年6月21日
最終出場 1980年10月24日(第1試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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北陽高では三塁手と控え投手を兼ね、四番打者として1970年春の選抜に出場[1]。エース永井春夫(西川物産)の好投もあり、準々決勝で岐阜短大付、準決勝では鳴門高を降し決勝に進出する。しかし島本講平を擁する箕島高に延長12回サヨナラ負け、準優勝に留まった。この大会では永井をリリーフし2試合に登板する。同年夏の甲子園府予選でも決勝に進出するが、PL学園新美敏投手に抑えられ敗退。春夏連続出場はならなかった。高校同期に才田修松岡高信がいる[1]

卒業後は近畿大学へ進学。関西六大学リーグで通算65試合に出場し、215打数77安打、打率.358、4本塁打の成績を残す。ベストナイン3回選出。1974年春季リーグでは、3年生エース森口益光を擁し、中心打者として優勝に貢献、MVPにあたる記者クラブ賞を受賞する。直後の全日本大学野球選手権大会では、準決勝で中畑清らのいた駒大に延長13回0-1で敗退した。森口とともに1974年日米大学野球日本代表メンバーの一員に選出される。

1974年ドラフト2位で中日ドラゴンズに入団[1]。好打の遊撃手として期待されるが広瀬宰正岡真二の壁を破れず、二軍暮らしが続く。しかし徐々に力をつけ、1978年には42試合に起用され、二塁手としても4試合に先発出場する。その後宇野勝が台頭すると、控え選手としても出場機会が減り、1980年11月自由契約となる。近鉄に移籍するも活躍の場はなく、翌1981年限りで現役引退。

現在は大阪市港区にて焼鳥店「かみがき」を経営。実子は大阪府立市岡高等学校の主将として、第67回選抜高等学校野球大会に出場している[2]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1975 中日 16 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1976 9 4 4 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1977 11 29 28 6 7 1 1 1 13 5 1 0 0 0 1 0 0 5 1 .250 .276 .464 .740
1978 42 37 35 10 6 2 0 0 8 3 1 1 0 0 1 0 1 9 0 .171 .216 .229 .445
1980 11 27 24 4 9 1 0 0 10 2 0 0 2 0 1 0 0 3 1 .375 .400 .417 .817
通算:5年 89 101 95 22 22 4 1 1 31 10 2 1 2 0 3 0 1 20 2 .232 .263 .326 .589

記録

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背番号

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  • 5(1975年 - 1976年)
  • 14(1977年 - 1980年)
  • 45(1981年)

脚注

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  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、161ページ
  2. ^ 「第67回センバツ高校野球第5日・第1試合 日南学園8-5市岡」毎日新聞、1995年3月30日東京朝刊19面

関連項目

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外部リンク

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