神保 春茂(じんぼう はるしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。官途は式部大輔あるいは式部丞。

 
神保 春茂
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文22年(1553年
死没 慶長元年(1596年6月3日
戒名 練徳心研
墓所 紀伊国如意輪寺
官位 式部大輔あるいは式部丞
主君 畠山秋高豊臣秀吉
氏族 湯川氏?→神保氏
父母 父:神保茂定[1]神保光茂[2]
兄弟 湯川春仍[3]神保茂家[4]
相茂
テンプレートを表示

出自

編集

寛政重修諸家譜』によると、惟宗姓の神保宗右衛門長誠から孫の彦九郎茂政[注釈 1]-彦次郎則茂[注釈 2]-三河守茂勝[注釈 3]-右衛門尉茂定[注釈 4]-春茂と続いたとされる[5]

一方で、『古今采輯』によると、姓の神保宗右衛門(長誠)から彦次郎宗角[注釈 5]-彦九郎則角[注釈 6]-右衛門尉光茂[注釈 7]-春茂と続いたとされる。加えて、春茂には「春仍弟」とあり、血筋としては湯川直春-直定-春定-春茂と続いた可能性がある[6]

概要

編集

寛政重修諸家譜』によると、紀伊国有田郡石垣鳥屋城に住んでおり、畠山氏が没落した後は紀伊国に幽居し、その後豊臣秀吉に仕え大和国高市郡に6000石の知行地を与えられたという[7]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 某年大和国河原合戦にて戦死
  2. ^ 某年大和国高間合戦にて戦死
  3. ^ 某年紀伊国有田郡石垣にて死去
  4. ^ 某年河内国東光合戦にて戦死
  5. ^ 某年大和国宇智郡河原陣討死
  6. ^ 某年大和国高間陣討死
  7. ^ 某年河内国経光寺合戦討死

出典

編集
  1. ^ 『寛政重修諸家譜[1]』(國民圖書、1923年)
  2. ^ 『古今采輯』
  3. ^ 『古今采輯』
  4. ^ 『寛政重修諸家譜[2]』(國民圖書、1923年)
  5. ^ 『寛政重修諸家譜[3]』(國民圖書、1923年)
  6. ^ 『古今采輯』
  7. ^ 『寛政重修諸家譜[4]』(國民圖書、1923年)

関連項目

編集