碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。

碧蹄館の戦い
戦争文禄の役
年月日文禄2年1月26日(1593年2月27日)
場所朝鮮国京畿道高陽県
結果:日本軍の勝利

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

交戦勢力

朝鮮国
豊臣政権
指導者・指揮官
李如松 先鋒隊小早川隆景
立花宗茂

本隊宇喜多秀家

戦力
先鋒5,000~20,000[9] 先鋒隊3,000(1500)~20,000[10]

本隊21,000(大部分は戦闘未参加)[10]

損害
諸説あり

被害甚大[11]

戦死6,000[12]

死傷者1,500[13]

死傷者500-600[14] 

数千人[15]  

諸説あり

戦死120余り[13]

死傷者500-600[14] 

文禄・慶長の役

文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(ピョクチェグァン(벽제관)、現在の京畿道高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現ソウル)めざして南下する李如松率いる约4,000の軍を、小早川隆景らが率いる約20,000の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。

戦闘までの経緯

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明の軍勢による平壌陥落、大友吉統の逃亡(誤報による無断退却とも)などによって一時混乱状態にあった日本勢だが、朝鮮半島北部各地に展開していた諸将を漢城に集めて戦力を立て直しを図った。軍議において石田三成大谷吉継たちが籠城戦を主張する中で小早川隆景[16]立花宗茂などが迎撃戦を主張し宇喜多秀家を総大将、小早川隆景を先鋒大将とし石田、大谷は漢城に残り兵力をほぼ二分する形で碧蹄館の戦いにのぞんだ。

23日、開城にて李如松が漢城攻略の作戦会議を開き、査大受を偵察隊として送る事を決める[17]

24日、査大受率いる明軍の偵察隊が日本軍の偵察隊(主な指揮官は加藤光泰前野長康)に勝利、日本軍偵察隊は60人余りの死者をだし撤退する[10]。 朝鮮王朝実録では日本軍偵察隊の戦死を100~1000とする複数の記事がある [18] [19] [20] [21] [22] [23]。柳成龍の懲毖録においては、明軍が討ち取った首級は百余人[24]。(以上朝鲜史料记载均为26日对阵立花宗茂战斗,不是24日战斗。)


査大受はこの勝利を開城の李如松に報告。朝鮮人による「日本軍の精鋭は平壌で壊滅し漢城には弱兵が残るのみ」との報告もあったため、25日、李如松は5000の兵と共に開城を出発する[10]

戦闘の経過

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日本軍は迎撃の先鋒を立花宗茂高橋直次(後の立花直次)兄弟とし[25]、午前2時頃、先に森下釣雲[26]十時惟由ら軽兵30名が敵状を偵察、敵軍は未明の内に進軍すると予測し、午前6時頃碧蹄館南面の礪石嶺北側二所に布陣した。先鋒500を率いた十時惟道[27]内田統続[28]を正面に少ない軍旗を立てることで、査大受の率いる明軍2000を騙して進軍するよう誘致し、越川峠南面にて正面で惟道らと交戦を開始した。そして宗茂と直次の本隊2000は、先鋒の惟道らと中陣700の小野鎮幸[29]米多比鎮久[30]を陣替する際に、直次[31]戸次鎮林[32]を陣頭に立てて、左側面から敵後詰・高彦伯の朝鮮軍数千に奇襲を仕掛けて撃退に成功し、更に宗茂は800騎の備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈追撃、戦果を拡大した。ここで日本軍は7千の敵軍と遭遇する [33]。立花軍は奮戦するが、敵軍は次々に新鋭を繰り出し兵を入れ換えてくる[33]。 この最中、十時惟道、内田統続、安田国継[34]らは突撃を敢行、鑓を投げて数十騎を突落し[35]、明・朝鮮軍を中央突破して回転突破したが、その際に中陣の戸次統直[36]は強弓を引いて20餘の敵兵を射落し援護しながらも[37]、惟道が李如梅の毒矢を受けて、帰陣から間もなく戦死し[38][39][40]、旗奉行の池辺永晟[41]も惟道負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣と替わるのを成功させたが、後の追撃戦で戦死した。寡兵の立花・高橋勢は奮戦してこれを撃退、越川峠北方右側にて兵を休ませ、この後に小早川隆景など日本軍先鋒隊が到着すると、疲労の深い立花勢を後方に下げて、西方の小丸山に移陣した[42]。この戦端が開かれた時点では日本軍本隊はまだ漢城に在った。

午前10時頃、高陽原に明軍は左・右・中央の三隊の陣形で押し寄せた。日本軍先鋒隊は全軍を碧蹄館南面の望客硯に埋伏させ、同時に三方包囲策を進行し立花、高橋[43]と吉川広家が左方、小早川秀包、毛利元康、筑紫広門と宇喜多秀家が右方から迂迴進軍する。午前11時頃、正面に出た隆景軍の先陣二隊の内、明軍の矢面に立った粟屋景雄隊が次々繰り出される新手を支えきれずに後退を始めると明軍はすかさず追撃に移る。しかし、戦機を待ってそれまで待機していたもう一方の井上景貞隊がその側背に回り込んで攻撃し、井上隊にいる清水景治も鉄砲隊で射撃したことで明軍は大混乱となった[44][45]。その機を逃さず立花宗茂が部将の立花成家[46]に鉄砲隊を率いて三回撃たせ、高橋勢と共に多数の軍旗を掲げて太鼓を鳴らせ[47]、全軍揃って左方から敵陣に強襲する[48]小早川秀包毛利元康[49]筑紫広門勢が右方から側撃、隆景本隊[50]吉川広家[51]安国寺恵瓊[52]、宇喜多家の家臣戸川達安国富貞次[53]花房職之も正面より進撃し、明軍前衛を撃破して北の碧蹄館にいた李如松の本隊に迫って正午の激戦となった、この際立花軍には小西行長からの使者宇佐美民部が奮戦して兜首二つを取った[54]。また、立花家臣の金甲[55]の将・安東常久[56]と一騎討ちして李如松自身も落馬したが、李如梅の矢を受けて常久は戦死した。落馬した李如松は小早川の部将井上景貞の手勢に迫られたが、側近の李有聲が盾となってこれを助け、李如梅、李如柏らが救出した、李如松の親衛隊も李有升など80余名ほど戦死した。そこに明軍副総兵楊元が火軍(火器装備部隊)を率いて援軍として駆けつけ態勢を回復して防戦に努めるが、身動きもままならない狭隘地に三方から包囲される形となって壊走を始めたのは午後1時頃であった[57]

かくして日本軍本隊の本格的な戦闘参加を待たずに正午頃には戦いの大勢は決し、隆景らの日本軍は退却する明軍を碧蹄館北方の峠・恵陰嶺に午後2時から4時まで追撃し深追を止めたが、宗茂と秀家の軍勢はより北の虎尾里まで追討し、午後5時までに漢城へ引き上げた。明軍は開城まで撤退した。

なお、立花軍の金備え先鋒隊長小野成幸[58]や与力衆の小串成重[59]小野久八郎[60]と一門の戸次鎮林、そして高橋家中今村喜兵衛井上平次帆足左平梁瀬新介も戦死し、宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、二つの甲首を鞍の四方手に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。また、秀包の家老の横山景義、部将桂五左衛門内海鬼之丞伽羅間弥兵衛手島狼之助湯浅新右衛門吉田太左衛門波羅間郷左衛門など、広家配下の綿貫藤次郎も戦死した。

明軍の被害

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この戦いでは、歩兵・火器を温存した明軍は騎兵中心の編成となっていたが、碧蹄館の地は騎兵の機動力を活かすことの出来ない狭隘な渓谷であり、かつ前夜よりの雨で泥濘地と化していた。騎馬に不適な戦場であったこともあり、この一戦で明軍の被った損害は甚大で[2]、戦死者数6,000余に上るとされる[61]朝鮮王朝実録の記事では、日本軍戦死120人、明軍死傷1,500人とあり[6]、朝鮮王朝実録の別の記事では、日本軍と明軍の死傷者が双方500~600人とある[14]。また別の記事には「天兵(中国兵)短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊(日本軍)奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」という記述もある[62]。更に朝鮮王朝実録の記事では、李如松の麾下の親衛隊の内、李有升ら勇士80人余りが戦死した事も記されている[63]。また家丁の李文升も戦死した[64]

李如松軍のために兵糧等の手配もしていた、朝鮮の宰相である柳成龍が著述した懲毖録には、「李如松提督が率いていたのは皆北方の騎兵で火器を持たず只切れ味の悪い短剣を持っていただけだった。一方賊(日本軍)は歩兵でその刀剣はみな3,4尺の切れ味無比のものだったから、衝突激闘してもその長刀を振り回して斬りつけられるので人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはなかった。提督は後続軍を呼び寄せたが、その到着以前に先軍は既に敗れ死傷者が甚だ多かった。日暮れに提督は坡州に戻った。その敗北を隠してはいたものの、気力を沮喪すること甚だしく、夜には親しく信頼していた家丁の戦死を痛哭した。」とある。

ルイスフロイスが著述したフロイス日本史には「日本人はシナ人よりも勇敢で、 武器ならびに戦術の点で優れており数々の面でシナ軍の劣勢は疑えない。」 と総括してる。

その後の影響

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この戦いの敗北によって李如松は戦意を喪失して明軍の勢いはそがれ、開城、さらに平壌までまで撤退し[65]、武力による日本軍撃退方針を諦めて講和交渉へと転換する。その一方で日本軍も3月に明軍に漢城近郊・龍山の兵糧倉を焼き払われ[66]、食料調達が最も困難なときに兵糧面で甚大な損失を出したため長期戦が難しくなり、石田三成小西行長らは明との講和交渉を開始した。

日本・明両軍の編成

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日本軍

参謀本部編の「日本戦史・朝鮮役」では、実際に戦闘を行った日本軍の先鋒を2万、戦闘に参加しなかった本隊を2万1千としている[10]

文禄の役の立花宗茂・高橋直次の兵数(軍役数)は通説では三千人程とされるが、人夫などの非戦闘員が半数に及んだとされる[67][68]。 そして当時の出陣の諸大名はほとんど軍役数未満の状態で出兵するのが常態で(『柳川藩叢書』第一集 補遺(五)「従軍者鳥取次郎兵衛尉の手記覚書」の記述によると、文禄の役最初の渡海の際、立花宗茂が率いる人数は1500)、立花軍の参戦兵数は1500程度だと推測される。[69]

総大将-宇喜多秀家・先鋒隊大将-小早川隆景

先鋒隊

合計20,000[10]

本隊(大部分は戦闘未参加)

合計21,000[10]

漢城守備

明軍

参謀本部編の「日本戦史・朝鮮役」では、明軍の先鋒を2万としている[10]

なお、平壌攻撃時の明軍の兵数は43,000余り、朝鮮軍の兵数は8,000余りであった[71]

脚注

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  1. ^ 明史/卷20 "李如松進攻王京,遇倭於碧蹄館,敗績。" http://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷20
  2. ^ a b 明史/卷238 "官軍喪失甚多。會天久雨,騎入稻畦中不得逞。倭背嶽山,面漢水,聯營城中,廣樹飛樓,箭砲不絕,官軍乃退駐開城。" http://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷238
  3. ^ 明史/卷238 "初,官軍捷平壤,鋒銳甚,不復問封貢事。及碧蹄敗衄" http://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷238
  4. ^ 明史/卷320 "如松既勝,輕騎趨碧蹄館,敗,退駐開城。" http://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷320
  5. ^ 明史/卷322 "如松乘勝趨碧蹄館,敗而退師。" http://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷322
  6. ^ a b 朝鮮王朝実録 1593年2月5日 當日南兵千戶吳惟珊, 以調兵事過去言: ‘前月二十七日, 晌午, 天兵爲我國哨兵瞞報所誤, 謂「倭賊已退, 京畿已空」, 領兵前進, 倭賊曾已埋伏, 反被中截圍掩, 斬倭僅一百二十餘, 天兵死傷一千五百, 提督今住臨津江邊, 雨雪如彼, 定然退屯開城
  7. ^ 朝鮮王朝実録 1593年1月 "宋經略進住安州, 提督李如松進兵坡州, 戰于碧蹄驛, 不利, 退住開城。 提督引大軍而南, 柳成龍先行促辦糧草, 幸不乏供。 臨津氷解, 乃從上流薄氷上, 聯葛索布籬, 作梁以渡軍, 列邑士民始從山谷出, 竭力搬運, 事皆隨辦。 提督徐行至坡州, 持重不前。 査大受與我將高彦伯, 領兵數百, 先行偵探, 至京城西, 遇賊於碧蹄驛南礪石峴, 斬百餘級。 提督聞之大喜, 獨與親丁騎兵千餘馳赴之, 令大軍繼發。 賊先伏大兵於峴後, 只數百人據峴示弱。 提督卽麾兵進, 賊自峴而下, 兵未交, 賊兵猝起於後, 結陣山上, 幾萬餘。 天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。 提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死, 提督使査大受殿後, 奪路而出, 大軍繼至, 賊望見還走。 提督暮還坡州, 召李有升壻王審大, 拊背慟哭曰: "好男兒, 爲我死也。" 提督欲退住東坡, 柳成龍、兪泓、金命元等, 叩帳請見曰: "勝負, 兵家常事, 當觀勢更進, 奈何輕動?" 提督曰: "昨日吾軍無不利事, 但此地經雨泥濘, 不便住軍, 所以欲還東坡, 休兵更進耳。" 遂退陣東坡。 明日退住開城, 成龍等力爭不聽, 獨留査大受領兵數百, 與柳成龍守臨津。"
  8. ^ 中国——朝鲜·韩国关系史 author:杨昭全 pp.486
  9. ^ 日本戦史 朝鮮役(本編・付記)NDLJP:936355/130
  10. ^ a b c d e f g h 参謀本部編 『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』NDLJP:936355/130
  11. ^ 明史/卷238 "官軍喪失甚多" http://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷238
  12. ^ 参謀本部編 『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』NDLJP:936355/132
  13. ^ a b 朝鮮王朝実録 1593年2月5日 斬倭僅一百二十餘, 天兵死傷一千五百
  14. ^ a b c http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wna_12602019_012&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録 "上曰: "天兵之死者, 其數幾何?" 德馨曰: "與賊, 死傷相當, 幾至五六百矣。"
  15. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四八六 安国寺恵瓊書状 高主(高橋主膳正統増)へ茂同前ニ申入候、御傳達所希候、已上、 去廿六日大明人罷出候処ニ、先手御請取候て被振御手柄、数千人被討取由、京都御三人衆隆景注進状にて承知、誠雖不珍候御手柄之儀候、弥以道各可申傳候、弥隆景被仰談可被懸御手柄候、尚吉事追々可承候、取紛漸一筆申入候、恐惶謹言、 二月二日 、柳川侍従様 人々御中 安國寺恵瓊 P.580。
  16. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十六小早川隆景の決心)
  17. ^ 参謀本部編 『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』NDLJP:936355/129
  18. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wnb_12601001_003 朝鮮王朝実録・宣祖修正実録 ”査大受與我將高彦伯, 領兵數百, 先行偵探, 至京城西, 遇賊於碧蹄驛南礪石峴, 斬百餘級。”
  19. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602005_008 朝鮮王朝実録 ”提督先遣査大受ㆍ祖承訓等, 領精騎三千, 與本國防禦使高彦伯, 遇賊於迎曙驛前。 大受與彦伯, 縱兵急擊, 斬獲六百餘級”
  20. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602006_006 朝鮮王朝実録 ”本月二十七日, 李提督領兵發行, 聞査副揔ㆍ高彦伯, 同往體探, 適逢賊六七百名, 斬獲四百餘級”
  21. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602010_010 朝鮮王朝実録 ”是日曉, 査緫兵與防禦使高彦伯, 馳到昌陵近處, 賊多設伏于山谷間, 先出數百餘人誘引。 總兵揮軍掩擊, 賊坡靡散走, 斬獲殆盡, 彦伯軍, 亦多射殺”
  22. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602010_010 朝鮮王朝実録 ”去二十五六日, 査、李兩將, 連日剿賊, 斬獲甚多。”
  23. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_12602019_012 朝鮮王朝実録 ”正月二十七日, 祖承訓、査大受、張彦忠、李寧等, 率三千餘兵, 往碧蹄, 與賊相値, 一人或斬六十級, 或四十級, 通計千餘級矣。”
  24. ^ 「懲毖録」柳成龍 朴鐘鳴訳 平凡社 東洋文庫 1979年 186頁
  25. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十七宗茂の決心)
  26. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十九)森下釣雲小傳 P.250~252
  27. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(二)十時連久小傳 P.231~233
  28. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(三)内田統続小傳 P.233~234
  29. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(六)小野鎮幸小傳 P.237~238
  30. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(七)米多比鎮久小傳 P.238~240
  31. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(一)高橋統増小傳 P.229~231
  32. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十一)戸次鎮林小傳 P.244~245
  33. ^ a b 参謀本部編『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』[[[国立国会図書館#電子図書館事業|NDLJP]]:936355/131]
  34. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(五)天野源右衛門小傳 P.235~236
  35. ^ 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八八 十時傳右衛門について P.181
  36. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(八)戸次統直小傳 P.240~241
  37. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 戸次統直舉勇名於異國事 P.540~541
  38. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十九十時傳右の戦死)
  39. ^ (十時氏系図)によれば、死去の日は2月5日『筑後国史』
  40. ^ 朝鮮側の『宣祖実録』では「前進して望客峴下に襲撃して克たず。已にして先鋒参将李寧等の軍来たりて之を援く」とあり、明軍の先鋒隊が負けたとなっています。『毛利家記』では「十時伝右衛門惟道とて数度勇の誉れある者。真っ先に進み戦しに、大勢に押しつつまれて討たれ、其外究竟の者73人、枕を双べて討たれ、手負も数十人也。敵をも六百余討ち捕し。然れば先手に有りし唐人ども、同勢の中に引取りし」と記している。
  41. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(四)池邊永晟小傳 P.234~235
  42. ^ 『毛利家記』によると、この時大谷吉継黒田長政『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十七 黒田長政の威風)が前線までやって来て、宗茂の奮戦を讃え、速やかに漢城に引き上げることを強く勧めましたが、ちょうど到着した小早川隆景と一緒にこれに反対し、明軍本隊との決戦に臨む旨を表明した、となっています。
  43. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(九一)敵を背にして陣す 219~220頁
  44. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十二 粟屋井上碧蹄の戦功)
  45. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十三 清水景治碧蹄の戦功)
  46. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(九)立花成家小傳 P.241~242
  47. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八五)三本品柄 215
  48. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十 立花宗茂碧蹄の殊功)
  49. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十五 毛利元康碧蹄の戦功)
  50. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十一小早川隆景碧蹄の殊功)
  51. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十四 吉川広家碧蹄の戦功)
  52. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十六 安国寺恵瓊碧蹄の戦功)
  53. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十八 戸川達安碧蹄の戦功、第七十九 国富源右の剛勇)
  54. ^ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第八十 宇佐美民部の戦功)
  55. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(五六)立花の笠験とは金甲也 177~178
  56. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十二)安東常久小傳 P.245
  57. ^ 明史/卷238 將輕騎趨碧蹄館。距王京三十裏,猝遇倭,圍數重。如松督部下鏖戰。一金甲倭搏如松急,指揮李有聲殊死救,被殺。如柏、寧等奮前夾擊,如梅射金甲倭墜馬,楊元兵亦至,斫重圍入,倭乃退,官軍喪失甚多。會天久雨,騎入稻畦中不得逞。倭背嶽山,面漢水,聯營城中,廣樹飛樓,箭砲不絕,官軍乃退駐開城。
  58. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十三)小野成幸小傳 P.246~247
  59. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十四)小串成重小傳 P.247
  60. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十五)小野久八郎小傳 P.248
  61. ^ 参謀本部編 『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』 偕行社、大正13年(1924年)
  62. ^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録 "○宋經略進住安州, 提督李如松進兵坡州, 戰于碧蹄驛, 不利, 退住開城。 提督引大軍而南, 柳成龍先行促辦糧草, 幸不乏供。 臨津氷解, 乃從上流薄氷上, 聯葛索布籬, 作梁以渡軍, 列邑士民始從山谷出, 竭力搬運, 事皆隨辦。 提督徐行至坡州, 持重不前。 査大受與我將高彦伯, 領兵數百, 先行偵探, 至京城西, 遇賊於碧蹄驛南礪石峴, 斬百餘級。 提督聞之大喜, 獨與親丁騎兵千餘馳赴之, 令大軍繼發。 賊先伏大兵於峴後, 只數百人據峴示弱。 提督卽麾兵進, 賊自峴而下, 兵未交, 賊兵猝起於後, 結陣山上, 幾萬餘。 天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。 提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死, 提督使査大受殿後, 奪路而出, 大軍繼至, 賊望見還走。 提督暮還坡州, 召李有升壻王審大, 拊背慟哭曰: "好男兒, 爲我死也。" 提督欲退住東坡, 柳成龍、兪泓、金命元等, 叩帳請見曰: "勝負, 兵家常事, 當觀勢更進, 奈何輕動?" 提督曰: "昨日吾軍無不利事, 但此地經雨泥濘, 不便住軍, 所以欲還東坡, 休兵更進耳。" 遂退陣東坡。 明日退住開城, 成龍等力爭不聽, 獨留査大受領兵數百, 與柳成龍守臨津。"
  63. ^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録 "提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死,"
  64. ^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wna_12602019_012&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= "朝鮮王朝実録" "而提督以其手下家丁多死, 李文升又戰亡, 故痛哭悲傷"
  65. ^ 『懲毖録』柳成龍/平凡社 192頁
  66. ^ The history of Ming chapter 238 聞倭將平秀嘉據龍山倉,積粟數十萬,密令大受率死士從間焚之。倭遂乏食。
  67. ^ 『文禄・慶長の役 : 東アジアを揺るがせた秀吉の野望』学研〈歴史群像シリーズ35〉
  68. ^ 参謀本部 日本戦史 朝鮮役|1924|附表第一
  69. ^ 中野等 『立花宗茂』P.64~66。中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.117~118
  70. ^ この兵数は通説の軍役数ですが、朝鮮派兵前の立花家の石高9万887石から換算すると実際の軍役数は2500人。そして当時の出陣の諸大名はほとんど軍役数未満の状態で出兵するのが常態で(『柳川藩叢書』第一集 補遺(五)「従軍者鳥取次郎兵衛尉の手記覚書」の記述によると、文禄の役最初の渡海の際、立花宗茂が率いる人数は1500)、立花軍の参戦兵数は3000どころか2500でさえ未満だと推測される。中野等 『立花宗茂』P.64~66。中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.117~118。
  71. ^ 参謀本部編 『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』