石黒 四郎(いしぐろ しろう、1908年1月1日[1] - 1968年7月24日)は、日本外交官位階正三位

外務省特殊財産局長や、賠償庁次長、駐ニュージーランド特命全権大使等を経て、駐メキシコ特命全権大使在任中病死した。

人物・経歴

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愛知県知多郡河和町出身。1930年高等試験外交科合格。1931年に東京商科大学(現一橋大学)を卒業して、外務省に入省し、在英国大使館や外務省東亜局第一課で勤務した[2]

1938年から在中華民国大使館三等書記官及び在上海領事を務め[3]、上海ユダヤ避難民に関し、犬塚惟重海軍大佐、安江仙弘陸軍大佐と現地調査会で調査を行い、上海ゲットーの整備などを進めた[4][5]。1942年在中華民国大使館二等書記官[6]。1943年在中華民国大使館一等書記官[7]

1947年経済安定本部総裁官房連絡部長[8]。1948年連絡調整中央事務局第二部長[9]。1949年外務省特殊財産局長[10]。同年賠償庁特殊財産部長[11]。同年賠償庁次長[12]。1951年在サンパウロ日本政府在外事務所所長[13]。1952年在サンパウロ総領事[14]。1956年駐イラク特命全権公使[15]。1957年兼駐ジョルダン特命全権公使[16]

1959年駐ニュー・ジーランド特命全権大使[17]。1965年駐メキシコ特命全権大使[18]。1966年兼駐グァテマラ特命全権大使[19]。在任中の1968年に病気のため死去し、グスタボ・ディアス・オルダスメキシコ大統領から昭和天皇に御弔電がなされた[20][21]従三位勲二等旭日重光章[22]正三位[23]

出典

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  1. ^ 『人事興信録 第24版 上』(人事興信所、1968年)い210頁
  2. ^ 人事興信録 第15版 上
  3. ^ 官報 1938年03月05日
  4. ^ 関根真保日本は戦時上海のユダヤ人を「救った」のか、それとも「見捨てた」のか   海軍大佐・犬塚惟重の言動から現代中国研究Vol. No. 39
  5. ^ 山本尚志レオニード・クロイツァー追考 : ヨーロッパ在住時代の記録と日本亡命後のユダヤ避難民救出計画学習院高等科紀要 14 183-208, 2016-11-01
  6. ^ 官報 1942年04月04日
  7. ^ 官報 1943年07月15日
  8. ^ 官報昭和22年本紙第6139号 17頁
  9. ^ 官報昭和23年本紙第6329号 113頁
  10. ^ 官報昭和24年本紙第6712号 3頁
  11. ^ 官報昭和24年本紙第6716号 54頁
  12. ^ 官報昭和24年本紙第6880号 223頁
  13. ^ 官報昭和26年本紙第7430号 281頁
  14. ^ 旧総領事公邸がピカピカに=文化施設として生まれ変わり=二宮、大原両氏が建物来歴を証言ニッケイ新聞
  15. ^ 官報昭和31年本紙第8889号 298頁
  16. ^ 官報昭和32年本紙第9046号 403頁
  17. ^ 官報昭和34年本紙第9665号 248頁
  18. ^ 官報昭和40年本紙第11621号 23頁
  19. ^ 官報昭和41年本紙第11747号 21頁
  20. ^ 官報昭和43年本紙第12488号 13頁
  21. ^ 官報昭和43年本紙第12485号 14頁
  22. ^ 官報昭和43年本紙第12495号 17頁
  23. ^ 官報昭和43年本紙第12496号 12頁
先代
磯野勇三
外務省特殊財産局長
1949年
次代
賠償庁に移管
先代
新設
賠償庁特殊財産部長
1949年
次代
下田武三
先代
島津久大
賠償庁次長
1949年 - 1951年
次代
河崎一郎