石飛仁
石飛 仁(いしとび じん、英語: Jin Ishitobi、1942年8月1日 - )は、日本のノンフィクション作家、社会運動家。
花岡事件など中国人強制連行、日本の戦争責任問題に取り組み、日中友好に努める。
月刊「産業と経済」編集長。東京東アジア文化交流会代表。本名:樋口 仁一(ひぐち じんいち)。
来歴
編集大阪府生まれ。1954年東京都新宿区富久町へ転居。富久小学校6年に転校。1957年、東戸山中学卒業(第1期生)。1961年、駒澤大学付属高校(渋谷校)、1965年駒澤大学文学部国文学科卒業[1]。
劇団「青俳」演出部に入団。秋浜悟・木村光一演出助手(「青俳」第一回紀伊国屋演劇賞受賞、木村光一文部大臣賞受賞) [2]。 1967年蜷川幸雄、岡田英次、蟹江敬三、石橋蓮司らと劇団「現代人劇場」を結成。新劇人反戦青年委員会代表を務める。
1970年、劇団退団後ルポライターとなり月刊「潮」を中心に戦争責任をめぐるルポを執筆。1971年「花岡事件」の調査を開始。1972年光文社女性自身の「シリーズ人間」班専属記者となる。1973年太平出版社より「中国人強制連行の記録」刊行。
1984年、花岡事件被害者在日四氏の代理人として企業交渉開始。事実の劇場劇団「不死鳥」結成。 1985年「花岡事件」指導者耿諄発見。河南省で初会見(来日運動を開始)。1991年孫平化中日友好協会会長と会見し、天津の抗日殉難者記念館初の調査。企業交渉原則合意に至る。 1997年「秋田裁判記録」発見により、7月1日「花岡事件」慰霊供養の集い開始。1998年「日中平和祈念堂」建設事業団(二階堂進会長)準備室長となる。2001年天津中日平和慰霊公園建設事業で天津市と合意調印。
2003年女性自身専属記者を離れ、フリーライターとなる。出雲古代史起し「御門火まつり」開始。2004年日本写真芸術専門学校フォトフィールドワーク科講師(2年間)。2006年天津抗日殉難者祈念館完成。2007年(社団法人)国際善隣協会正会員となる。「1&2演劇祭」運営委員長就任。
2008年「産業と経済」編集長に就任。季刊「日本主義」同人。東京東アジア文化交流会主宰。2011年、NPO国際縄文学協会会員。
主な著書
編集- 「中国人強制連行の記録」(太平出版社 1973年)[3]
- 「風の使者ゼノ神父」(講談社 1982年)
- 「夢の砂漠」(佐川出版 1983年)
- 「悪魔の証明」(経林書房 1987年)
- 「自然が体に優しいだから私は野菜党」(農文協 1990年)
- 「花岡事件」(現代書館 1996年)
- 「中国人強制連行の記録―日本人は中国人に何をしたか「」(三一書房 1997年)
- 「魂の教育」(東林出版社 1998年)
- 「風の使者ゼノ」(自然食通信 1998年)
- 「蘇れ古代出雲よ」(新泉社 2004年)
- 「花岡事件『鹿島交渉』の軌跡」 (彩流社 2010年)
共著
編集- 「魅せられてフリークス」(秀英書房 1982年)
- 「迷走」(経林書房 1985年)
- 「人間の記録'88」(二期出版 1988年)
- 「愛が引き裂かれたとき―追跡ルポ・結婚差別」(解放出版社 1996年)
監修など
編集関連項目
編集- ゼノ・ゼブロフスキー - ポーランド出身のカトリックの修道士、「蟻の街の神父」
- 強制連行
- 焼き場に立つ少年[6]
- 山田晃
出典・脚注
編集- ^ 石飛仁. “石飛仁プロフィール”. 2019年1月26日閲覧。
- ^ 紀伊國屋書店. “著者等紹介”. 2019年1月26日閲覧。
- ^ 紀伊國屋書店. “著書検索”. 2019年1月26日閲覧。
- ^ 彩流社. “花岡事件「秋田裁判記録」”. 2019年1月26日閲覧。
- ^ 図書新聞. “独自取材でオトシマエを追及し続ける・石飛仁著『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』(金子博文解説、彩流社) 2010年8月”. 2019年1月26日閲覧。
- ^ 東京新聞. “[https://www.tokyo-np.co.jp/article/47767 「<つなぐ 戦後75年> カメラマンの「良心」に迫る 長崎原爆「焼き場に立つ少年」記録作家・石飛さん講演 」2020年8月8日]”. 2020年12月23日閲覧。
外部リンク
編集- 『花岡事件』のことなら石飛に聞け! 石飛仁のライフワークは日中平和の原点「花岡事件」 - ウェイバックマシン(2018年11月5日アーカイブ分)
- 著書 | 国立国会図書館
- 石飛 仁 | CiNii