石敬亭
石 敬亭(せき けいてい)は中華民国の軍人。最初は北京政府、国民軍、後に国民政府(国民革命軍)に属した。号は筱珊。
石敬亭 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1886年(清光緒12年) |
死去: |
1969年(民国58年)11月19日 中華民国台北市 |
出身地: | 清山東省武定府利津県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 石敬亭 |
簡体字: | 石敬亭 |
拼音: | Shí Jìngtíng |
ラテン字: | Shih Ching-t'ing |
和名表記: | せき けいてい |
発音転記: | シー ジンティン |
事跡
編集車津学堂、東北武備学堂で学ぶ。1911年(宣統3年)に革命派の灤州起義に参加したが、蜂起は失敗に終わった。1912年(民国元年)、馮玉祥率いる綏遠の第16混成旅参謀官に任命され、まもなく参謀長となった。1921年(民国10年)、河南督軍公署少将軍務処処長に就任する。その後、第11師参謀長兼教導団団長に任命された。
1924年(民国13年)、国民軍第1軍整編第4旅旅長に就任した。1925年(民国14年)、第5師師長に昇進した。1926年(民国15年)1月以降、馮下野後の北京から南口にかけての戦いでは、後防総司令をつとめる。8月の綏遠への撤退後は、第5軍軍長兼西北幹部学校校長となった。1927年(民国16年)7月、代理陝西省政府主席兼国民革命軍第2集団軍第6方面軍総指揮に任命された。1928年(民国17年)、第2集団軍総参謀長となり、国民政府軍事委員会委員も務めている。
1929年(民国18年)10月、馮玉祥が蔣介石に内戦を挑むと、石敬亭は国民軍第1路軍総指揮として戦うが敗北した。1935年(民国24年)12月、冀察政務委員会委員に就任した。日中戦争(抗日戦争)中は軍事委員会軍風紀巡察団をつとめる。終盤の1945年(民国34年)にようやく第1戦区副司令長官に任命されたが、ほとんど前線には立てなかった。
参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 宗志文「張之江」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第9巻』中華書局、1997年。ISBN 7-101-01504-2。
- 郭緒印主編『国民党派系闘争史』上海人民出版社、1992年。ISBN 7-208-01384-5。