短夜物語
『短夜物語』(みじかよものがたり)は、1920年(大正9年)製作・公開、細山喜代松監督の日本のサイレント映画である。国際活映角筈撮影所の第1回作品である。
短夜物語 | |
---|---|
監督 | 細山喜代松 |
脚本 | 野村愛正 |
出演者 | 林千歳 |
製作会社 | 国際活映角筈撮影所 |
配給 | 国際活映 |
公開 | 1920年7月1日 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
略歴・概要
編集1919年(大正8年)12月6日、国際活映株式会社が設立され、同社の常務取締役に就任した小林喜三郎は、翌年1月に自らが設立した天活(天然色活動写真)を買収、松竹蒲田撮影所から井上正夫、日活向島撮影所から桝本清を引き抜き、東京府南豊島郡淀橋町大字角筈字十二社(現在の新宿区西新宿4丁目、京王プラザホテル近辺)に角筈撮影所を建設した[1]。桝本は同撮影所の所長および撮影課長(現在の製作部長にあたる)に就任し、かつて向島時代の同僚であった細山喜代松を監督係のメンバーとして入社させた[1]。同年4月には、設立第1作の製作にとりかかる[1]。
細山喜代松は、同じ設立メンバーのひとり、野村愛正の脚本を得、新劇の文芸協会出身の女優で、同じく設立メンバーに加わった林千歳[2]を主役に起用、本作を監督した[1]。共演に名を連ねる高勢実は後の喜劇役者・高勢実乗であるが、当時は喜劇的要素はまったくない性格俳優であった[1]。角筈撮影所は新劇の流れを汲む現代劇の撮影所、従来天活が稼働していた巣鴨撮影所は時代劇の撮影所となった。
本作は、同年7月1日、同年5月に株式会社武蔵野館(現在の武蔵野興業)が、角筈の甲州街道沿いにオープンしたばかりの新宿武蔵野館(1928年12月、現在の場所に移転)で公開された[1]。当時の角筈の地はまったくの郡部であり、東京市の住宅地から郊外の農村地帯へ、現在のバキュームカーの役割を果たす牛車が列をなしていた時代の話である[1]。「いっそ小田急で逃げましょか」が流行語となるほど新宿駅近辺が発展するのは、同フレーズが歌詞に登場する1929年(昭和4年)5月31日公開の『東京行進曲』前後であり、10年早い時代であった。
本作のフィルムプリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターは所蔵していない[3]。