矢部金太郎
建築家
矢部 金太郎(やべ きんたろう、1892年(明治25年)8月10日- 1976年(昭和51年)8月12日)[1]は、日本の建築家。銀座にあった旧建築会館や田園調布駅の設計で知られ、田園調布の都市計画にも関わる。第2次世界大戦後は、郷里で建設業に従事、また町会議員を務めた。
来歴
編集- 1892年(明治25年) 静岡県生まれ
- 1918年(大正7年) 東京美術学校図案科第二部卒業。同年、内務省明治神宮造営局に奉職し[2]、聖徳記念絵画館(1926年竣工)の建設に関わる[3]
- 1923年(大正12年) 早稲田大学大隈講堂建築設計懸賞競技の3等当選
- 1924年(大正13年) 田園都市株式会社に籍を置き、田園調布の開発に参加
- 1925年(大正14年) 復興建築助成株式会社に移籍
- 1929年(昭和4年) 2度目の建築会館建築懸賞設計競技で1等当選[4]。
- 1934年(昭和9年) 東京市庁舎建築設計懸賞競技で選外佳作二席に入選(一等は宮地二郎)[5]。
- 1936年(昭和11年) 大倉喜七郎の欧米視察旅行に同行[6]。
- 1937年(昭和12年)頃、銀座の高橋(貞太郎)建築事務所に入所
- 1938年(昭和13年)頃、新橋に自身の建築設計事務所を開設
- 1943年(昭和18年) 三井土建総合研究所で副部長に就く[7]
- 1945年(昭和20年) 故郷の静岡県相良町に疎開
- 1951年(昭和26年) 相良町町会議員(1959年まで)
- 1976年(昭和51年) 8月に逝去
作品
編集- 田園調布駅 - 1924年(大正13年) 田園調布(東京都大田区)。平成になって駅地下化のため撤去され、外観が復元された
- 多摩川園(園内デザイン)
- 渋沢秀雄邸 - 1924年(大正13年)田園調布。あめりか屋が施工担当
- はいばらビル - 1927年(昭和2年)日本橋(東京都中央区)。中村直次郎と共同、復興建築助成株式会社で建設
- 旧建築会館 - 1930年(昭和5年)銀座(東京都中央区)。コンペ当選案、実施設計を復興建築助成株式会社で行う。1982年に取り壊し。現在の建築会館(港区芝)に、一部部材(装飾)が保存されている
- 泰明商会 - 1930年(昭和5年)銀座[8]
- 芝本龍平邸 - 1935頃、田園調布
- 犬丸邸 - 1936年(昭和11年)田園調布
- 川奈ホテル(インテリア) - 1936年。高橋貞太郎設計のホテル。1936年[9]
- 篠原千三郎邸 - 田園調布
- 相良町立相良中学校校舎 - 静岡県相良町(現牧之原市)
- 相良町大江区公会堂 - 静岡県相良町
脚注
編集- ^ 堀勇良『日本近代建築人名総覧』(中央公論新社、2021年)。
- ^ 『職員録』(大正8年版)[1]、同(大正11年版)[2]では造営局技手。
- ^ 絵画館は設計コンペで当選した小林正紹(大蔵省)の案がもとになっている。佐野利器の指導のもと高橋貞太郎(明治神宮造営局技師)が設計をまとめ、後任の小林政一が引き継いで完成させた。
- ^ 藤谷陽悦「旧建築会館沿革録」『建築雑誌』第98巻第1209号、東京 : 日本建築学会、1983年7月、10-13頁、CRID 1520009407943820672、ISSN 00038555。
- ^ 新市庁舎の建設予定地は月島であったが、実現しなかった。(佐藤嘉明『神奈川県庁本庁舎と大正・昭和初期の神奈川県営繕技術者に関する建築史的研究』横浜国立大学〈博士(工学) 乙第264号〉、2006年。 NAID 500000348343 。)
- ^ 喜七郎、妻、三女、秘書、看護婦及び矢部の6人で6月5日出発。カナダ、英国、ドイツ、フランス、北欧、合衆国などを回り、12月に帰国。この間にベルリンオリンピックの開会式も見学している(『稿本大倉喜八郎年譜』第3版、p269)。「1940年に開催予定であった東京オリンピック施設設計担当に推挙され、海外を視察」という説もあるが、東京市関係の文書に矢部の名は見当たらない。
- ^ <お探しのページが見つかりませんでした>「続・生き続ける建築―5 渡辺 仁」 (PDF) INAX REPORT No.183、p16。[リンク切れ]
- ^ 『日本近代建築総覧』1982年発行による記載。取り壊され、現在の建物は1991年(平成3年)に竣工している。
- ^ ザ・クラシック・オブ・プリンスホテルズ - プリンスホテルズ&リゾーツ公式サイト。<お探しのページが見つかりませんでした>「続・生き続ける建築―7 高橋貞太郎」 (PDF) INAX REPORT No.185、7頁[リンク切れ]
関連項目
編集- 高橋貞太郎 - 矢部と同時期に、明治神宮造営局と復興建築助成株式会社に在籍。