白南檍
白 南檍(ペク・ナモク、朝鮮語: 백남억、1914年11月11日 - 2001年1月15日)は、日本統治時代の朝鮮の鉄道官僚、大韓民国の教育者、政治家。初代大邱大学(現・嶺南大学校)大学院長、参議員・第6・7・8・9代韓国国会議員を歴任した[1]。
本貫は水原白氏[2]。漢字表記は白南憶とも[3]。国民大学校経商大学学長の白種玹は息子、元国会議長の朴浚圭は妻の兄弟[4]。実業家の李秉喆の妻の朴杜乙は妻の従おば(岳父の従姉妹)[5]。
経歴
編集日本統治時代の慶尚北道金泉郡(現・金泉市)出身。九州帝国大学(現・九州大学)法文学部、ミシガン大学大学院修了。解放前は鉄道系統で官吏を務めたが、解放後は教育界に転身し、大邱大学(現・嶺南大学校)教授、同校初代大学院長(1958年3月 - 1960年11月)、東国大学校・建国大学校大学院講師を務めた[6]。1960年の第5代総選挙では民主党の候補として出馬し、慶尚北道で最多票数を得て参議院議員に当選したが、5・16軍事クーデター以降は民主共和党に転じ、1963年の第6代総選挙以降は民主共和党の候補として金泉・金陵選挙区から4回連続当選した。在任中は民主共和党政策委員会議長・党議長・総裁常任顧問、第6代国会法制司法委員長を歴任し、朴正煕大統領の3選改憲に反対した。1971年の呉致成内務部長官解任案、いわゆる10・2抗命波動では金成坤、吉在号らと共に「四人組」として、抗命を主導した。1978年の第10代総選挙では元国民会議副総裁の朴定洙に敗れて政界を引退した。その他は慶北文化団体総連合会最高委員、瑞峰文化財団設立者、韓国自動車保険会長、成均館大学校理事長、民族中興会長を務めた[1][3][4][7]。
脚注
編集- ^ a b “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2024年12月15日閲覧。
- ^ “(25)수원 백씨(水原白氏)-316,535명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年8月7日). 2024年12月15日閲覧。
- ^ a b “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2024年12月15日閲覧。
- ^ a b c “[부음]백남억 전의원” (朝鮮語). 동아일보 (2001年1月16日). 2024年12月15日閲覧。
- ^ “박노익 - 디지털달성문화대전”. dalseong.grandculture.net. 2024年12月15日閲覧。
- ^ “대학원 소개 > 연혁 및 역대 대학원장 게시판목록” (朝鮮語). 영남대학교 일반대학원. 2024年12月15日閲覧。
- ^ a b “백남억 前공화당의장 별세” (朝鮮語). 조선일보 (2001年1月17日). 2024年12月15日閲覧。