畠山昌人
畠山 昌人(はたけやま まさと、1981年5月4日 - )は、日本の元プロボクサー。北海道北見市生まれ [1][2][3]。小学生の時に札幌市に定住し、以来同地を拠点に活動している[4]。元日本ライトフライ級王者。
基本情報 | |
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本名 | 畠山 昌人 |
階級 | ライトフライ級 |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1981年5月4日(43歳) |
出身地 | 北海道北見市 |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 20 |
勝ち | 14 |
KO勝ち | 5 |
敗け | 3 |
引き分け | 3 |
北海道石狩高等学校3年時に協栄札幌赤坂ボクシングジム所属でプロデビュー。北海道内のジム所属者では初の日本王者となった[5]。
来歴
編集小学校時代はSSS札幌サッカースクールに在籍し山瀬功治や赤井秀一とチームメイトで親交を持つ。小中学を通じて、サッカーの札幌市選抜に選ばれ、高校にスポーツ推薦の話もあった。経歴の中で北海道で試合をしたのはただ一度。常にアウェイでの戦いであった。
高校入学後はボクシングに専念し、1999年6月21日、札幌協栄赤坂ジム所属でプロデビュー(4R判定勝ち)[5][4]。
1999年12月17日、3戦目で後のOPBF東洋太平洋ライトフライ級王者林田龍生と対戦し、4回判定勝ちを収める[4]。
2000年8月7日、5戦目で林田龍生と再戦。4回判定負けを喫する。
2002年7月8日、日本ライトフライ級王者北野隼と対戦し、最終回に北野からダウンを奪うも、ジャッジのミスでスリップ扱いにされる。結局、この判定が響いて10回引き分けとなり、日本王座獲得に失敗[5]。これに対しジムの抗議および署名活動がなされ、日本ボクシングコミッションがミスジャッジの裁定を下し、再戦が決定される[5][4]。
2002年11月11日、日本ライトフライ級王者北野隼とダイレクトリマッチを行い、10回判定勝ちを収め王座を獲得した[5][4]。
2003年4月21日、高山勝成と対戦し、序盤から高山の手数に押され気味だったが、後半から盛り返し、9回逆転TKO勝ちで初防衛に成功[4]。
2003年7月21日、小山泰裕を相手に2度目の防衛戦を行う。8回TKO勝ちで2度目の防衛に成功した[4]。
2003年10月20日、OPBF東洋太平洋ライトフライ級王者の山口真吾と対戦し、序盤は畠山、終盤は山口が押す一進一退の攻防の末、10R引き分け[4]。
2004年2月16日、林田龍生と3度目の対戦。両者最後の対戦となったこの試合は、畠山が10回判定勝ちを収め、3度目の防衛に成功した[4]。
2004年6月21日、宮城英和と対戦し、10回引き分けに終わり4度目の防衛に成功した[4]。
2004年9月20日、増田信晃と対戦し、10回判定負けを喫し5度目の防衛に失敗、王座から陥落した。
2005年3月21日、半田友章と対戦し、10回判定勝ち。再起に成功する[4]。
2005年6月28日、ペット・サクルンルアンと札幌行札幌メディアパーク・スピカで初の凱旋試合を行い4回TKO勝ちを収める[4]。そのリング上で、増田信晃への再戦と、世界王座奪取をアピールする。
しかしその数日後、畠山が右目の異常を訴え、網膜裂孔・網膜剥離と診断される。
2005年8月16日、JBCのルール規定により、正式に現役引退を発表。その際、畠山は専門誌のインタビュー「試合に出られなくなっても、何らかの形で大好きなボクシングは続けます」とコメントしている。
2005年11月21日、後楽園ホールで引退式が行われた。引退式のリング上で畠山は「自分の人生はまだこれから。ボクシングで学んだ経験などを大切にして、挑戦する気持ちを忘れずに、これからも戦い続けていきたい」とコメントを残し、8年間のプロボクサー生活に幕を下ろした。
引退後
編集2005年9月下旬、約1か月の入院生活を終え、現役時代に所属していた札幌協栄赤坂ボクシングジムでトレーナーを開始する。
2006年8月2日にWBA世界ライトフライ級王座決定戦(ファン・ランダエタ対亀田興毅)を観戦した際は、自身のブログ内で、判定に対する不服感と、自身が現役時代に追い求めていた世界王座が「ありえない」形で亀田に渡ってしまったショックを訴えていた。
戦績
編集- プロボクシング:20戦14勝(5KO)3敗3分
戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
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1 | 1999年6月21日 | ☆ | 4R | 判定 | 生澤誠(沖) | 日本 | プロデビュー戦 |
2 | 1999年9月20日 | ☆ | 2R | TKO | 竹中章裕(新松戸高橋) | 日本 | |
3 | 1999年12月17日 | ☆ | 4R | 判定3-0 | 林田龍生(渡嘉敷) | 日本 | |
4 | 2000年6月9日 | ☆ | 4R | 判定 | 小川利樹(沖) | 日本 | |
5 | 2000年8月7日 | ★ | 4R | 判定0-2 | 林田龍生(渡嘉敷) | 日本 | 東日本新人王敗退 |
6 | 2001年3月11日 | ☆ | 6R | 判定 | 伊波秀吉(具志川) | 日本 | |
7 | 2001年6月18日 | ☆ | 6R | 判定 | 長谷部弘康(協栄) | 日本 | |
8 | 2001年7月24日 | ★ | 8R | 判定 | 家住勝彦(レイS) | 日本 | |
9 | 2001年10月29日 | ☆ | 8R | TKO | 家住勝彦(レイS) | 日本 | |
10 | 2002年4月6日 | ☆ | 10R | 判定2-1 | 宮城誠(帝拳) | 日本 | |
11 | 2002年7月8日 | △ | 10R | 判定1-0 | 北野隼(ヨネクラ) | 日本 | 日本ライトフライ級タイトルマッチ |
12 | 2002年11月11日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | 北野隼(ヨネクラ) | 日本 | 日本ライトフライ級タイトルマッチ |
13 | 2003年4月21日 | ☆ | 9R 2:34 | TKO | 高山勝成(エディタウンゼント) | 日本 | 日本防衛1 |
14 | 2003年7月21日 | ☆ | 8R 2:35 | TKO | 小山泰裕(ワタナベ) | 日本 | 日本防衛2 |
15 | 2003年10月20日 | △ | 10R | 判定1-0 | 山口真吾(渡嘉敷) | 日本 | |
16 | 2004年2月16日 | ☆ | 10R | 判定2-0 | 林田龍生(渡嘉敷) | 日本 | 日本防衛3 |
17 | 2004年6月21日 | △ | 10R | 判定1-1 | 宮城英和(金子) | 日本 | 日本防衛4 |
18 | 2004年9月20日 | ★ | 10R | 判定0-2 | 増田信晃(駿河) | 日本 | 日本王座陥落 |
19 | 2005年3月21日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | 半田友章(宇都宮) | 日本 | |
20 | 2005年6月28日 | ☆ | 4R | TKO | ペット・サクルンアン | タイ | |
テンプレート |
獲得タイトル
編集- 第29代日本ライトフライ級王者(防衛4)
脚注
編集- ^ 「プロボクシング 北海道内ジム初日本王者・畠山が凱旋=北海道」スポーツ報知、 2002年11月13日、17頁
- ^ 「プロボクシング 前日本ライトフライ級王者の畠山来年3月に再起戦」日刊スポーツ、2004年12月8日
- ^ 『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』 ボクシング・マガジン編集部編、ベースボール・マガジン社、2004年3月1日
- ^ a b c d e f g h i j k l “畠山 昌人”. ボクシング 選手名鑑 -戦績一覧- -戦歴一覧- 2023年8月8日閲覧。
- ^ a b c d e 「ボクシングLフライ級*新王者の畠山*因縁の再戦制す*序盤から攻め切る」北海道新聞スポーツ面、2002年11月12日、21頁
- ^ “北方ジャーナル|information”. hoppo-j.com. 2021年3月25日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 北海道畠山ボクシングジム - 公式ホームページ
- 北の国から - 公式ブログ
- 畠山昌人ブログ
- 畠山昌人の戦績 - BoxRec
- 悪戦苦闘のトレーナー生活/畠山昌人さん 日刊スポーツ 2006年12月22日
- オフィシャルFacebookファンページ
前王者 北野隼 |
第29代日本ライトフライ級王者 2002年11月11日 - 2004年9月20日 |
次王者 増田信晃 |