甲府柳町宿
概要
編集甲府柳町宿は甲府城下、本陣や問屋場などの宿の機能が「柳町」に集約されていたことに由来する。宿は本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場1軒、旅籠21軒の規模であった。甲州街道が整備された当初は甲府が街道の終着地だったが、その後、1604年(慶長9年)に中山道下諏訪宿まで延長された。
武田家の滅亡後、徳川家康により新たに現在の舞鶴公園に甲府城が築かれると、江戸時代の甲州道中は城の南側を通る道筋となった。江戸時代には当宿場を下府中、武田時代の躑躅ヶ崎を上府中、あるいは古府中といった。大概帳によると甲府柳町宿は城屋町、和田平町、下一条町、上一条町、金ノ手町、工町、八日町、柳町、片羽町、西青沼町の計十町で成り立っていた。城屋町(現在の城東5丁目付近)には江戸側の木戸が設けられていた。八日町(現在の中央3丁目付近)には高札場があり、札の辻とも言われていた。八日町から南に曲がった角からが宿場の中心地であった柳町で、本陣、問屋が置かれていた(現在の中央二丁目から四丁目にかけて南北の町並み)。
宿場の周辺には、魚町、桶屋町、鍛治町など、職人らが集まる通りが形成され、 現在も通りの名前として継承されている。また武家地や町人地を囲った堀や土塁の名残がみられる。
参考資料
編集- 今井金吾『今昔三道中独案内:日光・奥州・甲州』P.333-334 JTB出版事業局 2004年
- 山と渓谷社「ちゃんと歩ける甲州街道」P.88-91
- 山梨県「やまなし歴史の道ツーリズム」甲府柳町コース