由比質
日本の教育者
由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日[1](1871年1月10日) - 昭和5年(1930年)4月7日[1])は、日本の教育者。称号は従三位勲二等。
ゆひ ただす 由比 質 | |
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生誕 |
1871年1月10日 日本 高知県土佐郡神田村(現・高知市) |
死没 |
1930年4月7日(59歳没) 日本 鹿児島県鹿児島市 |
死因 | 脳溢血 |
住居 | 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学文科大学史学科卒業 |
職業 |
山口高等学校教授 千葉県千葉中学校校長 第五高等学校教授 第三高等学校教授 松山高等学校校長 第七高等学校造士館校長 |
家族 | 由比光衛(兄) |
経歴
編集高知県土佐郡神田村(現・高知市)出身[2]。第三高等学校を経て、1896年(明治29年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業[1]。山口高等学校教授・舎監、千葉県千葉中学校校長、第五高等学校教授・生徒監、第三高等学校教授、松山高等学校校長、第七高等学校造士館校長を歴任した。
1930年(昭和5年)、鹿児島市で講演中に脳溢血で倒れて急逝[2]。墓所は染井霊園1-イ-4-19。同所には兄である陸軍大将由比光衛の墓もあり、右側の墓石が質のものである。
親族
編集脚注
編集- ^ a b c 「故第七高等学校造士館長由比質叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113068800
- ^ a b 20世紀日本人名事典
- ^ 人事興信所編『人事興信録 第5版』(人事興信所、1918年)ゆ1頁
参考文献
編集- 「故第七高等学校造士館長由比質叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113068800
公職 | ||
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先代 千葉県千葉中学校長 溝淵進馬 |
千葉県立千葉中学校長 1901年 - 1907年 千葉県千葉中学校長 1899年 - 1901年 |
次代 吉田賢龍 |