田辺寿
日本の経営者、登山家
田辺 寿[1](たなべ ひさし、1931年ないし1932年 - )は、日本の経営者、登山家。ダイエーグループの役職を歴任し、オ・プランタン・ジャポン社長や福岡ダイエーホークス球団社長などを歴任した、登山家としては、ヒマラヤ遠征に3度参加し、ヒマルチュリ (Himalchuli) 初登頂を果たすなどの実績を残している。
経歴
編集慶應義塾大学法学部在学中にマナスル登山隊への参加を希望し、卒業を延長して第3次遠征隊の派遣準備に関わったが、派遣は叶わなかった[2]。1956年に大学を卒業し[3]、三越に就職した[4]。
1959年、日本山岳会のヒマルチュリ (Himalchuli) 遠征隊に参加[4]。翌1960年には、山田二郎が率いた慶應ヒマルチュリ登山隊に参加して、原田雅弘とともに初登頂を果たした[5]。1969年には、日本山岳会の第2次エベレスト偵察隊に副隊長として参加した[4]。
三越では、宣伝部長などを経て[6]、本店次長となったが、1980年に三越を退職してダイエーへ移り、オ・プランタン・ジャポン初代社長に就任した[7]。
その後、ダイエー広報室長となり、全国各地のダイエー直営店舗を自転車で回るなどして「大物広報室長」として注目された[6]。さらに、ダイエー取締役秘書室長となり、1990年からは福岡ダイエーホークス球団社長を兼務するようになったが[8][9]、1993年4月に、ダイエー取締役を退任してグループ経営政策会議理事に退き[10][11]、同年9月にはホークス球団社長も退任した[12]。
1995年にダイエーを離れ、会社再建中のワンルームマンション業界大手マルコーに移り、管財人・社長となった[10]。また、日本山岳会では副会長を務めた[2]。
脚注
編集- ^ 田邊 壽と表記されることもある。外部リンク参照。
- ^ a b “(ニッポン人脈記)高い山へ地の果てへ:3 未知の「マナスル」を選ぶ”. 朝日新聞・夕刊: p. 1. (2005年11月16日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ 『慶應義塾百年史』、479 (3225)頁。
- ^ a b c “副隊長に田辺氏追加 第二次エベレスト偵察隊”. 朝日新聞・朝刊: p. 13. (1969年8月12日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “慶大隊ヒマルチュリ登頂に成功”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 11. (1960年6月2日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ a b “田辺寿さん 自転車で全国直営店巡り(ウチの辞令・ヨソの事例)”. 朝日新聞・夕刊: p. 15 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “田辺氏プランタンへ”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 8. (1980年6月19日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “田辺寿・ダイエー取締役秘書室長を球団へ出向”. 読売新聞・東京朝刊: p. 17. (1990年8月22日) -ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “田辺寿・ダイエー球団社長 水の効用でスマートに(人きのうきょう)”. 朝日新聞・夕刊: p. 2. (1991年2月9日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ a b “不動産販売のマルコー管財人にダイエーの田辺寿氏を選任”. 読売新聞・東京朝刊: p. 6. (1995年3月18日) -ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “役員16人が一挙退任 中内社長の長男、社長昇格が念頭? ダイエー”. 朝日新聞・朝刊: p. 3. (1993年4月21日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “ダイエーの根本陸夫氏が代表取締役監督に 球界初”. 朝日新聞・朝刊: p. 23. (1993年9月21日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
外部リンク
編集- 田邊壽氏講演 「ヒマルチュリ登頂に今の山登りをおもう」 - 日本山岳会東京多摩支部