田村源太郎 (1855年生の醸造家)
田村 源太郎(たむら げんたろう、1855年4月30日(安政2年3月14日)[1] - 1926年(大正15年)4月28日[2])は、日本の商人(肥料商)、醸造家、政治家、地主[注 1]。
経歴
編集鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)の人。芳太郎の長男[1]。家業は肥料及び酒類醸造業で、屋号は田村屋[1][注 2]。家業に努め奮励したため貨財を倍殖し、名望いよいよ起り、米子有数の豪商となる[1]。1901年、東糀区区長に当選[2]。
1913年、米子町会議員に当選する[2]。終始一貫熱心精励町治の発展に尽瘁する[2]。1926年、米子町功労者旌表規定により功労章を贈られる[2]。
人物
編集田村源太郎について、『商工資産信用録 第23回』には「職業・肥料、酒造、調査年月・1922年9月、正身身代・Q、信用程度・C」とある[6]。
『西伯之資力 大正11年10月調』によると所得税は「1051円81銭」、国税営業税は「387円49銭」である[3]。住所は糀町2丁目[2]。
家族・親族
編集- 田村家
- 父・芳太郎[7](肥料商、醸造家[注 3]) - 田村家はもと不振で漸く生業に力め家計を営んできたが、芳太郎が家運の振興を図り、夙夜孜々商事に心身を労し、少しも寧日が無かったので家務整然として其の緒に就き、業務が逐次隆盛に向かい、大いに財産を増殖した[1]。
- 妻・すか(1855年 - ?、鳥取、名島平次郎の二女)[9]
- 長男・源太郎[9](1881年 - ?、肥料商、醸造家、鳥取県多額納税者)
- 孫・純一[9](1907年 - ?、久米桜酒造会長)
- 親戚
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e 『島根鳥取名士列伝 下』96 - 98頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年9月22日閲覧。
- ^ a b c d e f 『米子自治史』54、926、946頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年9月22日閲覧。
- ^ a b 『西伯之資力 大正11年10月調』52、61、78頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年9月23日閲覧。
- ^ 『国民日用便覧 明治43年刊』に61頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月2日閲覧。
- ^ 『山陰実業興信録 大正11年』鳥取県西伯郡米子町205頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月25日閲覧。
- ^ 『商工資産信用録 第23回』鳥取県た之部190頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年5月15日閲覧。
- ^ 『大日本紳士鑑』鳥取県会見郡776頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年7月16日閲覧。
- ^ 『日本全国商工人名録』米子町1117頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月8日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第8版』タ70頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年9月22日閲覧。
参考文献
編集- 白崎五郎七編『日本全国商工人名録』日本商工人名録発行所、1892年。
- 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
- 深田豊市編『島根鳥取名士列伝 下』博進館、1903 - 1906年。
- 多納佐三郎編『国民日用便覧 明治43年刊』報光社、1910年。
- 商業興信所編『商工資産信用録 第23回』商業興信所、1921 - 1926年。
- 実業興信所編『山陰実業興信録 大正11年』実業興信所山陰本所、1922年。
- 西伯の資力調査会編『西伯之資力 大正11年10月調』西伯資力調査部、1922年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 米子市編『米子自治史』米子市、1939年。