田中銀之助

日本のラグビー選手

田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1873年明治6年〉1月20日 - 1935年昭和10年〉8月27日)は「天下の糸平」と呼ばれた相場師・田中平八の孫。英国ケンブリッジ大学に留学し、帰国後ラグビーを日本に伝えた。

たなか ぎんのすけ

田中 銀之助
田中 銀之助
生誕 (1873-01-20) 1873年1月20日
日本の旗 日本
死没 (1935-08-27) 1935年8月27日(62歳没)
出身校 ケンブリッジ大学(トリニティ・ホール・カレッジ)
第一高等学校
職業 田中銀行代表取締役
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来歴・人物

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生糸や洋銀の相場で巨額の富を得た田中平八。その長女・登羅(とら)と、婿であり糸平不動産や田中鉱山を興した田中菊次郎(北村菊次郎)の間に長男として生まれた。

当時の進学予備校であった神田淡路町共立学校(現・開成中学)に一時在籍し、学習院尋常中等科(現・学習院中等科)へ入学。1887年(明治20年)に留学準備のため横浜のヴィクトリア・パブリックスクールに入学。ここで後に共にラグビーを日本に伝えるエドワード・B・クラークと出会う。

同じく1887年の8月に家督を相続[1]。その2年後、1889年(明治22年)にイギリス留学。リーズ校を経て、1893年(明治26年)にケンブリッジ大学トリニティ・ホール・カレッジに入学。このケンブリッジ大学で一年遅れて入学してきたクラークと再会し共にラグビーをプレーした[2]。1896年(明治29年)6月に法学士の学位を取得後に日本に帰国。すぐに家業である田中銀行の取締役に就任した。後に田中鉱業、東洋鉱山、日本製鋼所[3]の役員も務める。

1899年(明治32年)頃にE・B・クラークと共に慶應義塾の塾生にラグビーのルールについて伝え指導したとされる。日本ラグビーフットボール協会の初代名誉会長[注 1]。1912年(明治45年)7月には満39歳にして第一高等学校仏法科を卒業した[1][5]

1921年(大正10年)に神津邦太郎から神津牧場の経営を引き継ぐと、東京府世田ヶ谷村羽根木に分農場を設けて東京市内に牛乳を販売した。1932年、田中銀行解散。1935年(昭和10年)8月27日没。

芸者遊びが大変に盛んであり、富豪の子息同士仲の良かった赤星鐵馬今村繁三を引き連れて新橋の花柳界を大いに荒らし回った[6]。また柔道2段の腕前であり、日露戦争直後に上村彦之丞海軍大将と新橋の料亭で遭遇した際には、その威張る様子に腹を立てて一撃を喰らわせたとされる[7]

家族・親族

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  • 祖父・田中平八 - 幕末から明治にかけて相場で財を築き天下の糸平と呼ばれた。
  • 父・田中菊次郎 - 旧姓北村。初代平八の長女・とら(1857年生)の婿[注 2]。家業の経営一切を担っていた1887年夏に急逝。
  • 叔父・田中平八(二代目)- 初代の長男・洋之助。1866年(慶應2年7月)に生まれ、1883年(明治16年)に家督を相続。名を改め平八の名を継いだ[注 3]。妻・澄(明治6年11月生)は東京府士族、福原實の長女。
  • 従姉妹・花子 - 二代目平八の長女。夫は東京市会議員・渡瀬寅次郎の二男で花子と結婚し婿養子となった田中次郎[10]。次郎は1943年より田中鉱業社長を務める。
  • 叔父・高田釜吉 - 初代平八の三男。高田商会の創設者・高田慎蔵の娘婿となった。
  • 妻・綾子 - 伯爵土方久元の孫(長男・久明の娘)。1882年(明治15年)6月生まれ[11]。銀之助の女遊びが盛んなことを知らず17歳で嫁ぎ、自身も松本幸四郎 (7代目)と浮名を流すなどして26歳で離婚。
  • 後妻・榮 - 海軍出身で衆議院議員も務めた八田裕二郎の長女、1884年(明治17年)生まれ。1918年(大正7年)以降に入籍[12][13]
  • 弟・田中虎之輔 - 東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒業[注 4]。田中銀行や田中鉱業の取締役を務めた。妻・鈴子は松本市左衛門の長女[15]。鈴子の実妹である林子の義父は二代目・田中長兵衛
  • 長女・久子(1901年1月生)- 聖心女子学院卒業。田中鉱業社員、飯島永太郎の養女となる[16]
  • 長男・田中元八郎(1903年8月-1955年10月)- 剣橋大学卒業[1]。帰国後田中鉱業に入社。1947年10月より湘南学園の理事長を[17]、1950年2月より田中鉱業の代表取締役を務めた。
  • 二男・田中銀八郎(1906年10月生)- 1916年ごろ失踪し世間を騒がせた[18]。1932年7月鎌倉で死去[19]
  • 三男・田中雄八郎(1921年1月生)- 糸平不動産及び田中鉱業の監査役を務める[注 5]
  • 四男・田中英八郎(1922年1月生)- 東京帝大冶金工学科卒。工学博士。東北大学金属材料研究所長兼低温センター長[20][21]
  • 二女・啓子(1923年3月生)- 後に三菱商事の社長を務める三村庸平に嫁ぐ。
  • 三女・邦子(1924年5月生)- 女子学習院卒業。
  • 曾孫に慶應義塾體育會蹴球部(ラグビー部)監督を務めた田中真一がいる[22]


脚注

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注釈

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  1. ^ 会長就任を打診されたが、固辞したため名誉会長になったとされる[4]
  2. ^ 三代目平八を名乗ったという説もあるが、初代の長男・洋之助は初代が没した1884年6月に二代目平八を襲名しており、菊次郎は1887年7月に没している[8]ことから、その可能性は低いと考えられる。
  3. ^ 1884年(明治17年)6月に父が亡くなり、同月二代目平八を襲名。1887年(明治20年)春に渡英したが、同年7月に経営一切を委任していた義兄・菊次郎が急逝したため急遽帰国。田中銀行及び第百十二国立銀行の頭取に就任した[9][8]
  4. ^ 柔道部に在籍し、卒業後も長く物心両面で部に支援を続けた[14]
  5. ^ 二男の銀八郎までは綾子との子であり、三男・雄八郎からは後妻・榮との子。

出典

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  1. ^ a b c 『人事興信録』(10版 下卷)人事興信所、1934年、タ25頁。NDLJP:1078694/17 
  2. ^ 『日本ラグビー史』日本ラグビーフットボール協会、1964年、14頁。NDLJP:2505473/16 
  3. ^ 『工業之大日本』9 (4)、工業之大日本社、1912年4月、41-42頁。NDLJP:1894426/139 
  4. ^ 日本協会初代会長は高木喜寛氏。田中銀之助氏は、初代名誉会長に見解を統一”. 財団法人日本ラグビーフットボール協会. 2024年3月22日閲覧。
  5. ^ 『第一高等学校一覧』(自大正2年至3年)第一高等学校、1926年、303頁。NDLJP:940276/157 
  6. ^ 『二代芸者 : 紅灯情話』 安藤せん子著 (新栄社, 1913)
  7. ^ 『財界の名士とはこんなもの?. 第2巻』 湯本城川著 (事業と人物社, 1925)
  8. ^ a b 小林郊人『天下の糸平:糸平の祖先とその子孫』信濃郷土出版社、1967年、66頁。NDLJP:2977006/45 
  9. ^ 『新聞集成明治編年史』 第6巻 歐化政治期、財政経済学会、1935年、505頁。NDLJP:1123764/280 
  10. ^ 『人事興信録』(第11版 下)人事興信所、1937年、タ43頁。NDLJP:1072938/74 
  11. ^ 『人事興信録』(初版)人事興信所、1911年、1087頁。NDLJP:779810/620 
  12. ^ 『人事興信録』(5版)人事興信所、1918年、た28頁。NDLJP:1704046/579 
  13. ^ 『人事興信録』(6版)人事興信所、1921年、た27頁。NDLJP:1704027/499 
  14. ^ 『一橋大学柔道部八十年史』一橋柔友会、1983年5月、408頁(写真有)。NDLJP:12146645/217 
  15. ^ 『人事興信録』(10版 下卷)人事興信所、1934年、タ43頁。NDLJP:1078694/26 
  16. ^ 『人事興信録』(10版 上卷)人事興信所、1934年、イ99頁。NDLJP:2127105/230 
  17. ^ 『湘南学園三十年の歩み』湘南学園、1963年、170頁。NDLJP:9581850/114 
  18. ^ 『経済情報』14(10)(1957年版)、経済情報社、1963年11月、75頁。NDLJP:2666389/381 
  19. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第2393号、640頁、1934年12月21日。NDLJP:2958869/15 
  20. ^ 『工学研究者名簿』(1957年版)日本学術会議第5部、1959年、488頁。NDLJP:2480023/251 
  21. ^ 『現代人物事典』(出身校別 全国版)サン・データ・システム、1982年1月、東北 96頁。NDLJP:12210308/374 
  22. ^ 曽祖父は日本ラグビー始祖 慶大新監督「功績に恥じない結果を」 スポーツニッポン 2011年1月18日閲覧