田中無事生
田中 無事生(たなか ぶじお、1885年(明治18年)10月[1] - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、福岡県若松市長。
経歴
編集三重県出身。田中健造の長男として生まれる[1]。無事に育つようにと「無事生」と命名された[2]。第七高等学校造士館を卒業[3]。1910年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年、内務省に入省し京都府属となる[1][3]。
以後、京都府竹野郡長、同府南桑田郡長、滋賀県理事官、徳島県警察部長、鳥取県書記官・内務部長、大分県書記官・内務部長、滋賀県書記官・内務部長、長野県書記官・内務部長などを歴任[1][4]。「万年内務部長」といわれた[2]。
濱口内閣により1929年7月5日、高知県知事に登用された。交通関係の土木事業の実施に尽力。また、農民の県産米検査反対運動が激しいため、制度の撤回を決定した[4]。1931年6月27日、茨城県知事に転任[5]。不況による県財政の悪化に伴い経費削減を実施。一方、必要不可欠な失業対策などの経費を増額し、繭検定所の新設、密漁船取締専用船の建造、茨城会館の建設を進めた[2]。1931年12月18日に知事を休職[6]。1932年1月29日、依願免本官となり退官した[7]。
1934年5月5日、若松市長に就任し、市長を一期務めて1938年5月4日に退任[8]。1939年7月、軍用保護馬鍛錬中央会常務理事に就任[9]。その後、理研葡萄酒 (株) 社長、日本馬事会監事を務めた[1]。