田中本吉
田中 本吉(たなか もときち[1])は、戦前新潟県の洋画家。旧姓は脇屋、号は卓峰山人。不同舎小山正太郎門下。北魚沼郡根小屋校長、神奈川県尋常師範学校図画担任、三島郡山谷沢村会議員、山谷沢尋常小学校課外講師。
田中 本吉 M. TANAKA | |
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生誕 |
脇屋本吉 万延元年(1860年)2月 越後国三島郡大積村(新潟県長岡市大積町) |
死没 |
1936年(昭和11年)1月27日 新潟県古志郡六日市村渡沢(新潟県長岡市渡沢町) |
墓地 | 長岡市専福寺 |
国籍 | 大日本帝国 |
教育 | 小山正太郎 |
出身校 | 新潟学校師範学部 |
著名な実績 | 洋画 |
代表作 | 「遠村鶏鳴」「農夫」 |
配偶者 | 田中新三郎娘 |
選出 | 明治美術会 |
メモリアル | 卓峰田中本吉君頌徳碑 |
影響を受けた 芸術家 | 浅井忠、黒田清輝 |
影響を与えた 芸術家 | 笠原軔 |
経歴
編集万延元年(1860年)2月越後国三島郡大積村(新潟県長岡市)に脇屋善四郎の四男・第六子として生まれた[2]。1878年(明治11年)1月新潟学校師範学科に入学し、1880年(明治13年)師範学部を卒業し、古志郡中沢校・三島郡才津校・大積大村校・尼瀬校訓導、北魚沼郡根小屋校長を歴任した[2]。
1886年(明治19年)11月上京し、11日中村桃庵の紹介で不同社小山正太郎に入門し、浅井忠・黒田清輝にも影響を受けた[2]。1889年(明治22年)神奈川県尋常師範学校に就職して図画を担任した[2]。1890年(明治23年)10月小泉成一を後任として退職、同月帰郷し、12月古志郡渡沢村の旧家田中新三郎に婿入りした[2]。
1894年(明治27年)山谷沢尋常小学校に農業習修学校が併設されると、毎冬夜学会に自宅を提供した[2]。1900年(明治33年)渡沢区長、村会議員、学務委員となり、1902年(明治35年)小学校校舎を増築した[2]。真宗大谷派に帰依し、1903年(明治36年)7月16日上古志仏教婦人会を創立した[2]。
1919年(大正8年)秋上信越、1921年(大正10年)飛騨・富士山を写生旅行した[2]。1921年(大正10年)60歳で家督を譲った[2]。
1924年(大正13年)4月山谷沢尋常小学校図画科課外講師となり、毎週水曜日無給で出講した[2]。同年9月北海道・東北、1926年(大正15年)西日本・朝鮮を写生旅行した[2]。1928年(昭和3年)昭和天皇即位の礼で献穀米奉耕の儀を務めた[2]。
内容が確認できる作品
編集- 「釜戸」 - 1888年(明治21年)作。個人蔵[2]。
- 「神田明神」 - 1889年(明治22年)明治美術会第1回展出品。『東京日日新聞』に提灯について酷評されている。図版のみ現存[2]。
- 「遠村鶏鳴」 - 1890年(明治23年)第3回内国勧業博覧会出品。農商務大臣に買い上げられた。『送別図』第3幅図中に描かれる。森鴎外に「鶏鳴」(明け方)にしては明るすぎると論評されている[2]。
- 小山正太郎筆「仙台の桜」模写 - 1894年(明治27年)1月作。個人蔵[2]。
- 「涛声」 - 1895年(明治28年)明治美術会秋季展覧会第7回展出品。図版のみ現存[2]。
- 「農家ノ夜業」- 1897年(明治30年)明治美術会春季展覧会第8回展出品。長岡市立山谷沢小学校所蔵[2]。
- 「木曽乃山路の図」 - 個人蔵[2]。
- 「農夫」 - 1893年(明治26年)以降作[2]。山谷沢小学校校長室所蔵[3]。
- 「静物」 - 1905年(明治38年)第4回太平洋画会展出品。図版のみ現存[2]。
- 「風景」 - 1906年(明治39年)作。長岡市立中央図書館所蔵[2]。
- 『画帳』 - 個人蔵[2]。
- 「汽車中人ノ様」 - 1919年(大正8年)作。木曽行の車内の様子[2]。
- 「木曽山中鞍馬橋附近雨中之光景」 - 1919年(大正8年)秋作[2]。
- 「妙義山ノ秋」 - 1919年(大正8年)作[2]。
- 「妙義山の秋色」 - 1919年(大正8年)作[2]。
- 「鯨波之夕陽」 - 1920年(大正9年)6月作[2]。
- 「飛騨ノ中山七里」 - 1921年(大正10年)10月作[2]。
- 「志笏湖」 - 1924年(大正13年)9月作[2]。
- 「駒ヶ岳」 - 1924年(大正13年)9月作。噴煙を上げている[2]。
- 「佐渡外海府笹子の堅岩」 - 1925年(大正14年)8月作[2]。
- 「月ヶ瀬梅の明」 - 1926年(大正15年)4月作[2]。
- 「芳野山中千本之一部」 - 1926年(大正15年)4月作[2]。
- 「備前国岡山市外三蟠港観望」 - 1926年(大正15年)4月作[2]。
- 「犬走河原」 - 1926年(大正15年)4月作[2]。
- 「旧羅漢」 - 1926年(大正15年)4月作[2]。
- 「日光杉并木今市町木ノ根坂」 - 1933年(昭和8年)10月作[2]。
- 「飛騨国中山七里ノ中」 - 1921年(大正10年)作。個人蔵[2]。
- 「伊豆修善寺」 - 個人蔵[2]。
- 「妙義山」 - 第一石門を描く。個人蔵[2]。
- 「風景」 - 1932年(昭和7年)作。長岡市立中央図書館所蔵[2]。
- 「風景(七ツ釜)」 - 1932年(昭和7年)作。十日町市田代の七ツ釜を描く[2]。2014年(平成26年)度新潟県立近代美術館収蔵[1]。
- 「風景」 - 1932年(昭和7年)頃作。田代の七ツ釜を描く。親族により専福寺本堂に寄進された[2]。
- 「風景」 - 2014年(平成26年)度新潟県立近代美術館収蔵[1]。
- 諏訪神社天井画 – 1898年(明治31年)初春作。長岡市中沢諏訪神社所蔵[2]。
- 専福寺欄間 – 1907年(明治40年)春作。中沢中村家のものだったが、新潟県中越地震で被災し、専福寺に寄附された[2]。
- 専福寺天井画198点 - 1917年(大正6年)4–5月作[2]。
- 衝立 – 1932年(昭和7年)作。富士山の前に菊を配する。脇屋本家の求めによる[2]。
記念碑
編集- 卓峰田中本吉君頌徳碑 - 1920年(大正9年)7月渡沢村日光社境内に建立[2]。
大積村脇屋家
編集- 初代:脇屋義助 - 新田義貞弟[4]。
- 8代:脇屋重勝 - 河内国に篭り[4]、楠氏に仕えた[5]。永正2年(1505年)没[4]。
- 11代:脇屋武勝 - 信濃国埴科郡横尾村に移り、庄屋となった。天正6年(1578年)没[4]。
- 13代:河内重経 - 越後国三島郡深沢村を経て大積村庄屋となり、河内氏を称した。慶安元年(1648年)没[4]。
- 20代:河内惣左衛門 - 栖吉村中村家出身。天保15年(1844年)没[4]。
- 22代:脇屋善四郎 - 明治4年(1871年)6月復姓。1875年(明治8年)没[4]。
- 23代:脇屋荘一郎 - 1898年(明治31年)没[4]。
- 24代:脇屋荘吉郎 - 1921年(大正10年)没[4]。
- 25代:脇屋誠義 - 1915年(大正5年)大積村大甲に開業[6]。1955年(昭和30年)没[7]。
- 26代:脇屋誠悦 - 2000年(平成12年)没[5]。
- 27代:脇屋義彦 - 2000年(平成12年)12月関原町に開業[8]。
誠義の姉の長男諸橋正昭は富山医科薬科大学教授、姉の孫諸橋芳夫は日本病院会長[5]。誠悦の弟脇屋正一は新潟大学工学部長[5]。
脚注
編集- ^ a b c 近代美術館 2016, p. 104.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba 松矢 2015.
- ^ “お宝鑑賞月間”. 学校日記. 長岡市立山谷沢小学校 (2017年7月11日). 2018年2月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 岡部 1937, p. 89.
- ^ a b c d 田中 2000.
- ^ 本田 1942, p. 新潟県26.
- ^ 脇屋 1998.
- ^ 脇屋 2001.
参考文献
編集- 松矢国憲「長岡出身の不同舎の画家・田中(脇屋)本吉の生涯と作品」『新潟県立近代美術館研究紀要』第14号、新潟県立近代美術館、2015年3月。
- 『平成26年度 新潟県立近代美術/新潟県立万代島美術館 年報』新潟県立近代美術館/新潟県立万代島美術館、2016年3月 。
- 岡部福蔵『越後の新田族』岡部福蔵〈赤峯叢書第1〉、1937年11月。NDLJP:1221098/83
- 脇屋誠悦「文部大臣表彰を戴いて」『ぼんじゅ~る』第216号、長岡市医師会、1998年3月。
- 田中健一「脇屋誠悦先生を偲んで」『ぼんじゅ~る』第248号、長岡市医師会、2000年11月。
- 脇屋義彦「開業一年の雑感」『ぼんじゅ~る』第252号、長岡市医師会、2001年3月。
- 本田六介『日本医籍録』(第17版)医事時論社、1942年9月。NDLJP:1071103/574
外部リンク
編集- 山谷沢お宝マップ - 長岡市立山谷沢小学校