甫喜山景雄
甫喜山景雄(ほきやま かげお、文政12年〈1829年〉 - 明治17年〈1884年〉4月5日[1])は明治時代のジャーナリスト。号は東陵。江戸時代後期、忍藩藩士家に生まれ、後に神田明神の社家の養子に入った。明治維新後、毎日新聞の源流東京日日新聞に関わり、特に雑報を得意とした。明治13年(1880年)より古書保存書屋を自称し、入手した稀覯本を『我自刊我書』として刊行した。
生涯
編集江戸時代
編集文政12年(1829年)、忍藩士白木三右衛門の次男として生まれた[2]。若い時には江戸幕府に仕え、嘉永6年(1853年)松江藩主松平斉貴隠居騒動の際、幕府派遣の使者に同行したという[2]。後に神田明神社家甫喜山知量の養子となり、家督を継ぐ[3]。
青年の頃大沼枕山に詩を学んだとされ[4]、嘉永3年(1850年)『同人集』の「白木玄」「白木玄之」、明治8年(1875年)『下谷吟社詩』の「甫喜山信」は景雄と目されるが、大沼家に現存する枕山関係の資料に名は見当たらないという[5]。
新政府時代
編集明治2年(1869年)、土岐英国、江沢温故、本多俊実等と大学史生を拝命し[1]、明治3年(1860年)の『職員録』に「藤原景雄」として載る[6]が、間もなく退職した[2]。
日報社時代
編集明治5年(1872年)日報社に入社し、10月に創刊した『教林新報』は景雄の手によるものともされる[2]。明治7年(1874年)岸田吟香と共に日報社編輯人となった[4]。
明治8年(1875年)6月新聞紙条例が施行されると、『東京日日新聞』では甫喜山景雄が2度罪を被ることとなった。明治8年(1875年)にはジャーナリストが言論弾圧に屈せぬよう鼓舞する20歳少年の投書を掲載したことが問題となり、編集長代理として名が載っていた甫喜山景雄が罰金10円、自宅禁錮30日に処せられた[7]。更に翌年1月19日には社説「抑圧の政に陥る」が咎められ、5月18日、仮編集長だった景雄に禁錮3ヶ月が言い渡された[7]。
明治9年から10年3月まで『通俗支那事情』編集長兼印務人を務めた後、明治11年(1878年)人手不足の大阪日報社の編輯を助けるため大阪に上った[4]。帰京後、明治13年(1880年)には京橋区西紺屋町9番地(中央区銀座二丁目、現在の東急ハンズ銀座店)に住んでいる。