生駒則正
生駒 則正(いこま のりまさ)は、大和宇陀松山藩家老である。
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 寛文4年(1664年) |
死没 | 元禄7年9月29日(1694年11月16日) |
改名 | 求馬(幼名)→長兵衛→三左衛門 |
別名 | 三左衛門(通称) |
戒名 | 玄光院雪江義白居士 |
墓所 | 奈良県宇陀市大宇陀区岩清水起雲寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 織田長頼 → 信武 |
藩 | 大和宇陀松山藩家老 |
氏族 | 賜姓生駒氏 |
父母 | 父:生駒則親、母:津田勝広の娘 |
兄弟 | 則正、則之 |
妻 | 正室:佐々高俊の娘 |
子 | 則定、主馬 |
家系
編集本姓は谷氏。初代忠親が美濃で織田信雄に召抱えられ、信雄の養女(織田信清の娘)を娶り、信雄の母の実家の生駒氏を称することを許されたのに始まる。2代はその弟範親が継ぎ、3代は範親の子則旦、4代は則旦の子則親が継ぎ、代々三左衛門を称して家老を務める藩内の名門であった。
生涯
編集寛文4年(1664年)、大和宇陀松山藩家老生駒則親の長男として宇陀に生まれる。母は藩主・織田長頼の庶兄・津田勝広の娘。延宝6年(1678年)、藩主・長頼に小姓として仕え、貞享2年(1685年)、組頭となる。元禄6年(1693年)、父・則親の隠居により家督相続し、禄高1,500石で家老となる。
その後長頼の次代藩主となった信武に引き続き仕えていたが、元禄7年(1694年)、中老・田中安定と共に信武の寵臣の組頭・中山正峯を公金横領による不正蓄財で訴え、信武の怒りを買い、9月29日、上意討ちで殺害された。享年31。同日、弟則之も切腹、則正の子則定、主馬兄弟も斬られ、隠居の則親夫婦は分家生駒玄矩屋敷に禁固、妻は甥の津田頼城に預けられた。この一件は幕府の耳に入り、信武は2人の重臣の殺害を釈明することが出来ずに、同年10月30日、自害してしまう。
このお家騒動は、宇陀崩れと呼ばれ、信武の家督を相続した継嗣信休は、幕府に騒動を咎められ、8,000石を削減の上で、丹波柏原藩に転封となった。
参考文献
編集- 『奈良県宇陀郡史料』