生野銀山
生野銀山(いくのぎんざん)は、兵庫県朝来市(但馬国)に開かれていた戦国時代から近代にかけての日本有数の銀山である。
生野銀山 | |
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明治時代の生野鉱山 | |
所在地 | |
所在地 | 兵庫県朝来郡生野町(現:朝来市) |
国 | 日本 |
座標 | 北緯35度10分18.04秒 東経134度49分10.74秒 / 北緯35.1716778度 東経134.8196500度座標: 北緯35度10分18.04秒 東経134度49分10.74秒 / 北緯35.1716778度 東経134.8196500度 |
生産 | |
産出物 | 銀・銅・錫 |
最深 | 880m |
歴史 | |
開山 | 807年 |
採掘期間 | 約1,200年 |
閉山 | 1973年3月22日 |
所有者 | |
企業 | 三菱合資会社 ⇒三菱鉱業株式会社 |
取得時期 | 1896年 |
プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
明治新政府が日本の鉱業(鉱山・製鉱所)の近代化を確立するために最初に官営(直轄)鉱山とした模範鉱山である。
概要
編集生野銀山が位置する生野は、但馬国と播磨国の国境付近、海抜300メートルほどの盆地に存在する。この付近は南に向かって瀬戸内海に注ぐ市川と北に向かって日本海に注ぐ円山川の分水界である。銀鉱山は市川の源流部の谷沿いに広がっている。
歴史
編集戦国時代
編集生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられるが、詳細は不明。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊が生野城を築き、石見銀山から灰吹法を導入し、本格的な採掘が始まった。[1][2]一時、山名氏家臣の竹田城城主である太田垣朝延の支配下に置かれた。永禄10年(1567年)に「堀切り」坑道が開堀され、元亀元年(1570年)になると金香瀬山の大谷筋で「金木山」、「松木山」、「藤木山」、「鞘木山」が発見された。「銀山日記」によれば、大きな木の根元に坑道を発見し、その木の名前をとったと記載されている。[3]
天平5年(733年)に羽柴秀吉に侵攻されたことを受け、天平6年(734年)になると秀吉の主君である織田信長により代官所が設置され、代官として生熊左兵衛が支配した。天平10年(1582年)に織田信長が本能寺の変において倒れると羽柴秀吉の代官である伊藤石見守が支配したと伝わる。一方で、天平8年(736年)に秀吉が但馬を平定したので天平6年には信長の支配下に置かれたと考えるのは難しく、天平8年に信長から秀吉の所領として与えられたという説が濃厚である。[4][5] 慶長2年(1598年)に伊藤石見守が納めた銀高は62267枚(2677貫)であり、同じ年の石見銀山も含めた中国地方全体の銀高は4869枚であったことから非常に大量の銀を採掘していたことが分かる。[3][4]
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は生野3万7千石を直轄地とし、佐渡金山(越後)、石見銀山(石見)とともに重要な財源とした。[3]
江戸時代
編集江戸時代に入ると生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出した。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されている。
慶安年間(1648年 - 1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称した。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増している。
戦前
編集明治元年(1868年)から日本初の政府直轄運営鉱山となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められた。
明治22年(1889年)から宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となった。
明治から大正にかけての生野銀山を舞台とする小説に、玉岡かおるの『銀のみち一条』(新潮社 2008年)がある。
戦後
編集昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから閉山し1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達している。
なお、閉山後は三菱鉱業(その後、三菱鉱業セメントを経て現三菱マテリアル)が引き続き銀山周辺に生野事業所を設置し、現在も生野の主要産業となっている。
史跡 生野銀山
編集史跡 生野銀山 | |
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鉱山資料館 | |
施設情報 | |
前身 | 生野銀山 |
テーマ | 生野銀山 |
キャッチコピー |
1200年の歴史とロマン 水と緑の美しい自然の里 |
事業主体 | 株式会社シルバー生野 |
管理運営 | 株式会社シルバー生野 |
開園 | 1974年 |
所在地 |
〒679-3324 兵庫県朝来市生野町小野33-5 |
位置 | 北緯35度10分18.04秒 東経134度49分10.74秒 / 北緯35.1716778度 東経134.8196500度 |
公式サイト | http://www.ikuno-ginzan.co.jp/ |
閉山後の1974年に、史跡 生野銀山(三菱鉱業の後継の三菱鉱業セメントと朝来市が出資する第三セクター会社、シルバー生野が管理・運営)という名称でテーマパークを開業した。のみの跡も生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館には「和田コレクション(和田維四郎)」をはじめとした多数の貴重な鉱物が展示されていたが、2023年2月現在では埼玉県さいたま市大宮区の三菱マテリアル(三菱鉱業セメントの後継会社)さいたま総合事務所へ移動している。
2007年に近代化産業遺産、および日本の地質百選に選定された。
年間を通じて旧坑道は低温・低湿気であることから、一部の坑道にて近年では日本酒・焼酎・ワインといった酒類や、シュトレンの熟成が行われている。
施設
編集- 金香瀬(かながせ)旧坑露頭群
- 観光坑道(金香瀬坑) - 金香瀬本坑、滝間歩坑道、慶寿ひ坑道、大丸ひ坑道(「ひ」の漢字は金偏に「通」)
- 鉱山資料館
- 生野銀山文化ミュージアム(生野鉱物館2階):別料金
- 生野鉱物館
- 吹屋資料館
- 代官所門
- 不動滝
- 観音岩
- レストハウス・お土産館
- 銀山食堂(閉店)
- 石影の広場
- 一円電車
入場料
編集- 大人1200円、小中高生600円、小学生未満は無料。
- 障害者手帳保有者は、本人に限り半額(等級によっては付添人も半額)
- 団体料金(30名以上)
生野銀山文化ミュージアム無料
休館日
編集- 12月 - 2月の3か月のみ毎週火曜日(火曜日が祝祭日の場合、翌日に振替)
- 年末年始(12月29日から1月3日まで)
ギャラリー
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菊の門と生野鉱物館
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坑道入口
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坑道内
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坑道出口
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石彫の広場
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一円電車
アクセス
編集重要文化的景観
編集生野鉱山を中心とした鉱山町が重要文化的景観として選定されている。範囲は大きく四つに区分され、史跡生野銀山がある金香瀬(かながせ)地域、江戸時代の鉱山町である奥銀谷(おくがなや)地域、明治時代の近代化の拠点となった太盛(たせい)地域、明治の鉱山町で生野駅へ至る口銀谷(くちがなや)地域からなる。奥銀谷・太盛・口銀谷地域は市川に沿って発展した。
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奥銀谷の新町を望む
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市川護岸上のトロッコ軌道跡(奥銀谷)
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三菱による水力発電所(太盛)
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旧生野鉱山社宅甲社宅(口銀谷)
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口銀谷の街並み
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口銀谷の町並み、市川沿いのトロッコ軌道跡
周辺
編集脚注
編集- ^ “生野銀山【歴史・概要】”. 株式会社シルバー生野. 2024年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月12日閲覧。
- ^ “史跡 生野銀山”. 朝来市. 2023年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月12日閲覧。
- ^ a b c 清原幹雄『生野銀山と銀の馬車道』神戸新聞総合出版センター、2011年5月20日、57-60頁。ISBN 978-4-343-00617-2。
- ^ a b 小葉田淳「生野銀山史の研究」『京都大學文學部研究紀要』第3巻、京都大學文學部、1954年3月、1-70頁、CRID 1050001335582117632、hdl:2433/72859、ISSN 0452-9774、2024年6月12日閲覧。
- ^ 実際に銀山の内山寺に対し、天正6年8月に山名氏政が寺領安堵の文書を与えているので山名氏の支配下にあったと考えられる。
関連項目
編集外部リンク
編集- 生野銀山 - シルバー生野
- 生野銀山(「鉱石の道」の歴史をたどる) - 朝来市
- 朝来市 - 朝来市公式サイト
- 『生野鉱山写真帖』(国立国会図書館デジタルコレクション)