甘露寺満子
日本の元皇族、甘露寺受長伯爵夫人
甘露寺 満子(かんろじ みつこ、1885年(明治18年)10月19日[1] - 1975年(昭和50年)7月16日[2])は、日本の元皇族、甘露寺受長伯爵夫人。皇族時代の名と身位は満子女王。
満子女王 | |
---|---|
北白川宮家、甘露寺家 | |
続柄 | 北白川宮能久親王の第一王女 |
身位 | 女王 → 降嫁 |
敬称 | 殿下 → 降嫁 |
出生 |
1885年10月19日 日本 |
死去 |
1975年7月16日(89歳没) 日本 |
配偶者 | 甘露寺受長伯爵 |
子女 | 一覧参照 |
父親 | 北白川宮能久親王 |
母親 | 申橋幸子 |
生涯
編集この節の加筆が望まれています。 |
北白川宮能久親王と側室の申橋幸子の娘として生まれる。1895年(明治28年)10月28日、父能久親王と死別。
1904年(明治37年)1月12日、甘露寺義長伯爵の嗣子甘露寺受長との結婚の勅許が下りた[3]。翌月には日露戦争が開戦する事態となった。同年11月14日、甘露寺受長に降嫁[4]。
義弟甘露寺方房の妻澄子が早世した際には、京都旅行の思い出と共に次の和歌を詠んで澄子を偲んだ[5]。
「 | 誰もみなやさしき君としのぶ草 涙のあめに色やそふらむ | 」 |
—『澄子』 p.173 |
血縁
編集参考文献
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 『纂輯御系圖』(松成堂、1903年)、p.201(NDLJP:1085748/120)
- ^ 『平成新修旧華族家系大成 上巻』(霞会館、1996年)p.477
- ^ 『官報』第6157号「宮廷録事」、明治37年1月13日(NDLJP:2949468/18)
- ^ 明治37年宮内省告示第17号(『官報』号外、明治37年11月14日)(NDLJP:2949737/18)
- ^ 『澄子』 p.172-173
- ^ a b c d 『人事興信録』第8版(1928年7月)、「甘露寺受長」の項
- ^ 『官報』第3070号「彙報」、昭和12年3月30日(NDLJP:2959553/9)