王 韶之(おう しょうし、380年 - 435年)は、東晋から南朝宋にかけての歴史家官僚は休泰。本貫琅邪郡臨沂県

経歴

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王偉之(王廙の子の王羨之の子)の子として生まれた。家は貧しく、父が烏程県令となったため、県境に居住した。衛将軍謝琰の下で行参軍を務めた。史籍を好んで広く読み、当時の詔や命令、上表や上奏文をよく書き写した。太元隆安年間の時事を記録して、『晋安帝陽秋』を私撰した。完成すると、当時の人に史職に就くべき人物とみなされて、著作佐郎に任じられた。自著の続きを書き、義熙9年(413年)まで記述した。叙事をよくし、言葉や議論に見るべきものがあり、後代の佳史と称された。尚書祠部郎となり、領西省事を務めた。中書侍郎に転じた。

義熙14年(418年)12月、劉裕の命により東堂に派遣され、安帝鴆毒を与えて毒殺した。恭帝が即位すると、韶之は黄門侍郎に任じられ、著作郎を兼ねた。永初元年(420年)、劉裕が帝位に就くと、韶之は驍騎将軍の号を加えられ、琅邪郡中正を務めた。西省の職を解かれ、また宋の記録を司るようになった。永初2年(421年)、璽封を誤った罪により、黄門侍郎の任を解かれた。

韶之が晋の歴史を書いたとき、王珣の利殖や王廞の反乱について非難した。王珣の子の王弘と王廞の子の王華がともに貴顕となると、韶之は彼らに陥れられることを恐れて、徐羨之傅亮らと強く結ぶようになった。永初3年(422年)、少帝が即位すると、韶之は侍中の位を受けた。景平元年(423年)、呉興郡太守として出向した。元嘉3年(426年)、徐羨之が処刑されると、王弘が司徒として入朝し、揚州刺史を兼ねた。韶之は王弘と職務上のつきあいがあったが、その弟たちはお互いに面識がなく、両家の往来もなかった。韶之は呉興郡にあって、いつも王弘に摘発されることを恐れ、職務に精励して成績を挙げたので、王弘は私怨を抑えて韶之を公正に扱った。文帝は韶之を賞賛して、良守と称し、秩中二千石を加えた。元嘉10年(433年)、韶之は建康に召還されて祠部尚書となり、給事中の位を加えられた。呉興郡を去ってからも物を取り送っていた罪により、免官された。

元嘉12年(435年)、再び呉興郡太守として出向した。この年のうちに死去した。享年は56。

子に王曄之があり、尚書駕部外兵郎・臨賀郡太守となった。

伝記資料

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