玉生城
玉生城(たまにゅうじょう)は、栃木県塩谷郡塩谷町大字玉生(下野国塩谷郡)にあった日本の城(山城)。建長6年(1254年)築城。慶長2年(1597年)10月13日廃城。
玉生城 (栃木県) | |
---|---|
城郭構造 | 平城 |
築城主 | 玉生忠景 |
築城年 | 建長6年(1254年) |
主な城主 | 玉生氏 |
廃城年 | 慶長2年(1597年)10月13日 |
遺構 | 曲輪 |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯36度46分39.7秒 東経139度50分49.4秒 / 北緯36.777694度 東経139.847056度 |
地図 |
沿革
編集玉生氏初代の玉生忠景(忠昌)が建長6年(1254年)に築城した[1]。なお忠景が弘長年間に築城した説[2]もある。
塩谷朝業の曾孫・忠景が玉生氏を名乗り[3]、下野国塩谷郡玉生の地に玉生城を築き[2]、玉生氏代々の居城となった。その後、玉生氏の勢力が拡大するとともに、応永16年(1409年)に時の当主勝泰が居城を宇都野城(鳩ヶ森城)に移すと、玉生城は、玉生氏の支城となった。
城は、宇都宮勢の北の守りの一つとして機能するが、慶長2年(1597年)10月13日に宇都宮氏が改易されると廃城となった[1]。
歴代城主
編集城主 | 生没年 | 城主の期間又は備考 |
---|---|---|
玉生忠景(忠昌)[4] | 生年月日不詳[5]。 - 弘長元年(1261年)11月1日没 | 建長6年(1254年) - 弘長元年(1261年)11月1日 |
玉生綱家 | 生没年不詳 | 弘長元年11月2日 - 不詳 |
玉生経綱[6] | 生没年不詳 | 期間不詳 |
玉生勝富 | 生年月日不詳 - 建武3年(1336年)2月6日没 | 就任年不詳 - 建武3年(1336年)2月6日 |
玉生富高 | 生年月日不詳 - 貞治2年(1363年)6月17日没[7] | 建武3年(1336年)2月7日 - 貞治2年(1363年)6月17日 |
玉生綱昌 | 生没年不詳 | 貞治2年(1363年)6月18日 - 不詳 |
玉生勝重 | 生没年不詳 | 期間不詳 |
玉生勝泰 | 生没年不詳 | 応永16年(1409年)に居城を宇都野城に移す。 |
玉生権太夫 | 生没年不詳 | 文安3年(1446年)に城主であった[8][9]。 |
神永右京亮 | 生没年不詳 | 大永3年(1523年)に城主であった[9]。 |
戸村兵部少輔 | 生没年不詳 | 天文7年(1538年)に城主であった[9]。 |
石下源兵衛[10] | 生没年不詳 | 最後の城主とも言われる。少なくとも資料で確認される最後の城主である。 |
*玉生忠昌から勝泰までは、『塩谷町史』収録の「玉生氏系図」に拠る。
城郭遺構
編集高原山塊系の丘陵部東端に位置している。遺構の西側のみ峰続きだが、他の3方向は断崖となっている。最高部に主郭を擁した。現在主郭跡には伯耆根神社が奉られている。また山麓には根小屋の字名が残っており、そこに城主の居館が築かれていたと考えられている[1]。
築城当初は、馬蹄形の地形である根小屋に一辺40~50メートルの規模で四方を堀で囲んだ程度の館城(平城)であり、詰め城の必要性が迫られる室町時代に入ってから、現在遺構が残る山城が築かれたと考えられている[11]。
脚注
編集- ^ a b c 『塩谷町史』第4巻
- ^ a b 平井聖〔ほか〕編 『日本城郭大系』新人物往来社、1979年。
- ^ 「玉生氏系図」(塩谷町史編さん委員会編『塩谷町史』第2巻中世資料編、塩谷町、1993年。収録)によれば、康平2年(1059年)8月に下野国宇都宮に下った藤原勝経により玉生氏が創始され、その5代後の子孫である玉生勝家の養子に、塩谷周防守の3男忠昌が入って玉生城を築城したとされるが、宇都宮氏や塩谷氏などの系図などでは、忠景が玉生氏の祖とされている。
- ^ 「玉生氏系図」では塩谷周防守の三男「忠昌」となっており、のち「隆昌」と改めたとする
- ^ 宇都宮氏の系図には享年が58とあり、これに基づくと、忠景の生年は元久元年(1204年)となるが、忠景の伯父に当たる塩谷泰朝の生年が建保2年(1214年)となっており時系列的に矛盾している。
- ^ 宇都宮泰綱の6男という(「玉生氏系図」)。
- ^ 「玉生氏系図」では貞治3年(1364年)と記されているが、富高が討死したとされる苦林野の戦いは貞治2年に起きており、系図の誤りであるとされている。(『塩谷町史 第2巻』「玉生氏系図」解説文)
- ^ 「宇都宮広巳文書」で玉生権太夫式部丞と表記されるが、玉生氏の誰なのかは不明である。年代的に見て、勝泰の次男泰忠であったとする説[要出典]、あるいは、宇都宮大明神社務職を務めた玉生綱家の弟忠家の子孫(代々「権太夫」を名乗った)とする説もあるが、定かではない。
- ^ a b c 「宇都宮広巳文書」(『塩谷町史 第2巻』117-123頁に収録)
- ^ 那須記の宇都宮国綱家臣という項目に玉生城主石於露志(いしおろし・石下)源兵衛として記されている。
- ^ 『塩谷町史』
- ^ 「塩谷町の文化財」塩谷町公式HP
参考文献
編集- 塩谷町史(塩谷町刊行物)
- 矢板市史編集委員会編 『矢板市史』矢板市、1981年。