玄制流
概要
編集祝嶺正献は昭和8年(1933年)から佐渡山安恒に、昭和12年(1937年)から岸本祖孝に師事し、首里派古流空手を学ぶ。
戦後、新技の創作に取り組み、昭和25年(1950年)に「玄制流空手道」の名称を公表した。大学・自衛隊・会社団体等120余りの関係道場で指導し、全国的組織へと発展した。祝嶺は昭和38年(1963年)、新武道として躰道を創始し、昭和40年(1965年)に日本躰道協会を設立した。これにより、祝嶺は玄制流空手道と躰道の宗家・最高師範を兼任することになった。玄制流空手道は平成3年(1991年)、全日本空手道連盟および日本空手道連合会の正式加盟団体となる。
その他の会派団体としては、土佐邦彦が創設した国際玄制流空手道連盟武徳会、成川哲夫が創設した国際空手道連盟玄制流成道会がある。
歴史
編集1925年12月9日、沖縄県沖縄県名護市に生まれた祝嶺は8歳で古武術の大家、佐渡山安恒から空手レッスンを受け、修行を開始。師の下で4年間訓練した。14歳の頃、岸本に受け入れられた。 岸本は弟子には非常に選択的で、生涯を通じて弟子は9人だけであり、また岸本に教わるまで、祝嶺は何度も頼んで認められる必要があった。岸本の最後の2人の弟子は、実際には祝嶺と比嘉聖徳(1920年生まれ)であったという。ある文献では岸本が弟子として受け入れる前に祝嶺がテストされたと述べている。初めて祝嶺と岸本が出会ったとき、岸本は火かき棒を取り、脱出した祝嶺に全力で木炭を投げたという。岸本はある条件で彼を弟子として受け入れたが、それは技術を秘密にしておくと約束することである[1]。
1949年、 伊東( 静岡県 )で空手技術を初めて公開した。 1950年10月、日本空手協会の他、小西康裕(錬武会)坂上隆祥(糸洲会)、泉川寛喜と赤嶺誠一(剛柔流)らと日本テレビ主催の空手展に参加。
祝嶺は形 Koshokun DAI、AO、手刀試割り(開いた手で34枚の瓦を壊した)と八段とびげり(1回のジャンプで8つのキックとジャンプキック)を披露した。
1953年には立川の軍事基地で自衛隊にレッスンを始め、10年間、 東京周辺の多くの道場(大学や企業グループなど)でレッスンを行う。このとき正式に彼の技術、玄制流が公に披露される。1950年が多くの場合玄制流の始まりの年として言及されて発表されていたが、1953年のこのときに表舞台に公開となったのである。
1964年、祝嶺は彼の著書「空手道教範」を出版し、玄制流空手道の基本を解説している。 本の形のいくつかは写真で徹底的に説明されている。
- 天のカタ
- 地のカタ
- 神のカタ
- サンセイ
- コリュウナイファンチ
- コリュウ バッサイ
- コリュウ クーサンク
1970年代の半ばに祝嶺は本を刊行。 この本のタイトルは(英語)「完全なドローイングによる空手トレーニング」で、約200ページあり、空手テクニックだけでなく、空手と柔道 、空手と合気道 、空手と大道などの違いについても説明されている。
祝嶺正献は(1995年以来)長い間病気を抱えていたが、2001年11月26日、妻、息子、2人の娘を残し心停止により死去。75歳。
玄制流の特徴
編集祝嶺正献は哲学者としても知られており、戦争中、彼は予期せぬことや予期しないことをすることは、2つの国家間の戦争であれ、単なる個人的な紛争であれ、勝利の秘訣であることを学ぶ。 言い換えれば、玄制流の基本的な哲学は、予期せぬことを行うというこの考えを追求することである。
型
編集- 太極
- 平安初段
- 平安二段
- 平安三段
- 平安四段
- 平安五段
- 内範置(ナイファンチ)
- 王冠(ワンカン)
- 祝嶺(シュクミネ)の抜塞(バッサイ)
- 祝嶺(シュクミネ)の抜塞小(バツサイショウ)
- 三才(サンサイ)
- 鷺牌(ローハイ)
- 公相君大(コウショウクンダイ)
- 公相君小(コウショウクンショウ)
- 城間(グスクマ)のチントウ
1965年に解散
編集1965年に祝嶺は玄制流を教えるのをやめた。にもかかわらず、祝嶺正献の数人の弟子らは玄制流を続けた。 祝嶺正献は1965年に玄制流から身を引いても弟子たちは彼の教えを続けていく。祝嶺正献が空手界を去る3年前に設立された武徳会は、土佐邦彦が引きつぐ。 現存する現世最古の組織は、国際玄制流空手道連盟 (1959年設立)。
会派団体
編集- 玄制流空手道
- 日本空手道連合会加盟団体。
- 国際玄制流空手道連盟武徳会
- 国際空手道連盟玄制流成道会
関連項目
編集外部リンク
編集参考文献
編集- ^ Bishop, Mark (1999). Okinawan Karate: Teachers, Styles and Secret Techniques. p. 137. ISBN 0-8048-3205-6