獨逸学協会
独逸学協会(どいつがくきょうかい、旧字体:獨逸󠄁學協會、独: Verein für deutsche Wissenschaften、英: Association for German Sciences)は、明治時代から第二次世界大戦期までに存在した日本の財団法人。1881年設立。明治初期の法制や、大日本帝国憲法に影響を及ぼした。略称は独協(どっきょう)。
創立者 | 西周・桂太郎・加藤弘之ら |
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団体種類 | 法人 |
所在地 |
日本 北緯35度50分23.5秒 東経139度47分39.6秒 / 北緯35.839861度 東経139.794333度座標: 北緯35度50分23.5秒 東経139度47分39.6秒 / 北緯35.839861度 東経139.794333度 |
主要人物 | 伊藤博文 |
活動地域 | 日本 |
製品 | 独逸学協会雑誌 |
関連団体: 東京帝国大学国家学会 |
概要
編集明治維新前後の開国に伴い、日本政府は民法や刑法、訴訟法など西洋式の司法制度の設置が急務となり、フランス法のジョルジュ・ブスケ、アルベール・シャルル・デュ・ブスケや法学者のギュスターヴ・ボアソナードらが法案起草を進めていたところ、1874年(明治7年)、これを支援していた元司法卿の江藤新平が叛逆罪により死罪となった[注釈 1]。一方、1873年(明治6年)には在日ドイツ人の集まりを母体として東京でオーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会が創設された[1]。政府が普仏戦争で勝利したプロイセンに明治通宝など国の基幹インフラを発注するようになると、その影響もありイギリス・イタリア・ドイツ帝国などの法律家の影響が強くなった。しかし、ドイツ語を教授する大学は、大学東校(のちの東京帝国大学医学部)以外にはなかった。
独逸学協会は、ビスマルク憲法やドイツ法などドイツ文化を取り入れていくという明治政府の国策により、1881年9月18日、西周や加藤弘之などの啓蒙学者を起用して設立された。東京麹町に在所し、北白川宮能久親王が初代総裁となり、山縣有朋、松方正義、山田顕義、西郷従道、井上毅、青木周蔵、桂太郎、平田東助、伊藤博文、品川弥二郎、杉浦重剛、三好重臣、イギリス法学派の穂積陳重などの明治時代の法制・外交・軍事・皇族教育に関わる官僚や、ドイツ側の会員としてオットー・ヘリング、ドールベルヒ男爵、ヘルマン・ロエスレル、武器商を兄に持つルドルフ・レーマン、経済学者カール・ラートゲン、統計学者のパウル・マイエット、ゲオルク・ミヒャエリス、アルベルト・モッセ、宣教師のウィルフリード・スピンナーらが名を連ねた[2]。
沿革
編集独逸学協会は、1883年に宮内省からの補助金を得て、後のドイツ帝国帝国宰相のミヒャエリスを教頭に、獨逸学協会学校を設立し、ドイツ語及びドイツ文化の普及に努めた。後には文部省と司法省からも補助金を得た[3]。独逸学協会学校専修科はこうして九大法律学校の1つに数えられるようになった。
1884年には文部省が、ドイツ学の帝国大学への普及方針を策定し、東京帝国大学に独法科・独文科を設置した。この流れにより独逸学協会学校の専修科は1895年、東京帝国大学独法科に吸収された。以後、独逸学協会学校は私学の中学校となった。
大日本帝国憲法の草案には会員のヘルマン・ロエスレルが深く関わり、他、商法典論争・刑法典論争や1889年の民法典論争でドイツ法学派の活動はさらに増大した[4][注釈 2]。1908年には、靖国神社の近隣にドイツ・スイス系の普及福音教会の東郷坂教会も進出した。
第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北したときには、1919年のベルサイユ条約により、ドイツ帝国が海底ケーブルなどのインフラを整えていた中国山東省の膠州湾租借地は、日本に譲渡されることが取り決められたが、五四運動や世界的世論に阻まれた結果、1922年、山東懸案解決に関する条約により同租借地は中国に返還された。国内では同年、刑事訴訟法が改正され、検察官の裁量権を拡大する起訴便宜主義が導入された。
内閣総理大臣犬養毅の暗殺により軍事政権が誕生した1932年以降、司法省はナチス法制を研究し始める[5]。ドイツでは1933年、バイエルン州次いでライプツィヒでハンス・フランク主導のドイツ法律アカデミーが発足した。
1938 年11月には日独文化協定が成立し、実施機関の在京日独文化連絡協議会の主事にナチス日本学者のウォルター・ドーナートが着任した[6]。
第二次世界大戦の敗北により、ナチス・ドイツ式法体系や教育制度が戦勝国アメリカ式に取って代わり、学校そのものの存在意義も問われるようになり、1947年には財団法人独逸学協会は財団法人独協学園に、独逸学協会学校は独協中学校に名称変更した。
年表
編集会誌
編集会誌として、1883年(明治16年)10月から大日本帝国憲法が成立した1890年(明治23年)10月号に至るまで『獨逸学協会雑誌』を発行した[7]。1889年(明治22年)に再創刊した『学林』の第1巻1号の巻頭緒言は、当時の編集人の飯山正秀が担当した[8][注釈 3]。
獨逸学協会会員
編集獨逸学協会学校出身者
編集関連項目
編集脚注
編集- 注釈
- ^ 元薩摩藩で親イギリス派の大久保利通は佐賀の乱について臨時裁判所を設け、わずか2日間の審議で11名を判決当日に斬首にした。
- ^ 1890年の『民法財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編』(明治23年法律第28号)と『民法財産取得編・人事編』(明治23年法律第98号)のうち、人事、相続、贈与と遺言、夫婦財産契約の部分は主に日本人法律家が起草したが、民法典論争の結果、公布後に施行が延期され、結局は未施行のまま廃止された。施行延期を主張した穂積八束は東京帝国大学国家学会会員、兄の穂積陳重はイギリス法学派で、討幕派の宇和島藩藩校の皇学教授鈴木重樹の息子であった。
- ^ 飯山正秀はのちの1909年1月30日には皇道学と教育勅語の普及を目的とする教育団体日本奨学義会を創設した。
- 出典
参考文献
編集- 獨逸学協会関連
- 文献
- 飯山正秀編『成功名家列伝』。国鏡社。1910年。
- 福田平「わが刑法学とドイツ刑法学との関係」『一橋論叢』第97巻第6号、日本評論社、1987年、733-744頁、CRID 390009224862608384、hdl:10086/12690。
- 新宮譲治『獨逸学協会学校の研究』(校倉書房 2007年 ISBN 4751738402
- 兼田信一郎「『獨逸學協會雑誌』掲載論説の変遷に関する考察」『獨協学園資料センター研究年報』第2号、獨協学園資料センター、2010年3月、22-50頁、CRID 1050282812541575040、ISSN 1883-7646。
- 清水雅大「ナチズムと日本文化」『現代史研究』第61巻、現代史研究会、2015年12月、1-15頁、CRID 1390001288040829696、doi:10.20794/gendaishikenkyu.61.0_1、ISSN 03868869。
- 中直一「第一次世界大戦と日本のドイツ語学習雑誌 : 『獨逸語學雜誌』に於けるドイツ観の変遷」『言語文化共同研究プロジェクト』第2020巻、大阪大学大学院言語文化研究科、2021年5月、11-20頁、CRID 1390290701225537408、doi:10.18910/85038、hdl:11094/85038。
- Dr. Anna Bartels-Ishikawa (2014), Die deutsche Expat-Community in der Meiji-Zeit in Tokyo am Beispiel der Familien Roesler und Delbrück. OAG Notizen.(東京におけるドイツ人コミュニティ - ロエスレル家、デルブリュック家など)
- Ishii Shiro; others (1995) (PDF), Fast wie mein eigen Vaterland: Briefe aus Japan 1886-1889. Hrsg. v. Shiro Ishii, Ernst Lokowandt u. Yukichi Sakai, Iudicium Verlag, Leo Baeck Institute
外部リンク
編集- OAGドイツ東洋文化研究協会(Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens)
- 獨逸学協会会員名簿獨協中学・高等学校同窓会