猿田氏
概要
編集猿田という氏族は複数あり、“さた”と読ませるものもある。
常陸国の猿田氏
編集常陸守護 佐竹氏に仕える佐竹家中の衆に猿田彦九郎の名ありという[2]。
秋田藩士 猿田氏
編集また、佐竹氏の秋田転封に随行した家系として、猿田忠季の系統がある。忠季、佐竹氏の秋田転封に随行してはじめて出羽国平鹿郡横手に住まい、足軽奉公をし、大阪の陣にも従軍するという[3]。
系譜 忠季―忠光―甚左衛門忠広―十蔵忠央
また、佐竹氏の家臣として秋田藩士となった武士に猿田光政がいる。慶長の頃、光政は浪人をしていたが、弟・仁左衛門ともども召しだされるという[3]。
系譜 光政―光成―光年―光武
尊王志士・義民として活動した猿田氏
編集- 猿田幸之介: 那珂郡小場村組頭 猿田幸次郎の長男。天狗党の乱にて天狗方に属すも那珂湊を出て潜伏中の元治元年(1864年)8月22日、黒羽藩兵に囲まれ戦い討ち死にする。享年26。靖国神社合祀[4]。
- 猿田雄彦: 久慈郡東蓮池村の医師。諱は政徳。天狗党に加わり、元治元年(1864年)同郡千寿村にて捕えられ、9月27日に獄死する。享年47。靖国神社合祀[5]。
- 猿田忠夫: 天狗党に加わり、捕えられる。慶応2年(1866年)2月4日、斬首[6]。
- 田中愿蔵: 水戸藩の藩医 猿田玄碩の次男。田中秀貞に養子入りし昌平黌の門に入る。帰郷後、郷校時雍館の館長を務める。天狗党に加わるが、元治元年(1864年)栃木村に放火するなど民百姓への暴挙があり、民衆から忌み嫌われた。捕えられ、同年10月16日、斬首となる[7]。
その他
編集水谷の家号を用いる一族に猿田御所なる名跡を持つ系統があり、陸奥国磐城郡猿田[注釈 1]に居住していた。下総結城氏に嗣子なかったことがあり、この猿田御所から養子を出したが、後に子が生まれたため、廃嫡の代償として長沼12郷、伊佐33郷を与えられた[1]。ちなみに、古河公方足利成氏の次男の氏盛は磐城郡水谷に居住していたが後に結城氏の養子となったといい、伝承が符合しているが、太田亮によると信憑性は低いという[8]。
脚注
編集- ^ a b c d e 太田 1934b, p. 2713.
- ^ 大内 1991, p. 106.
- ^ a b 秋田県公文書館編 2001, p. 175.
- ^ 明田鉄男編 1986, p. 227.
- ^ 明田鉄男編 1986, p. 237.
- ^ 明田鉄男編 1986, p. 359.
- ^ 明田鉄男編 1986, p. 217.
- ^ 太田 1934c, p. 5817.
参照文献
編集- 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』 1巻、新人物往来社、1986年6月。ISBN 4404013353。 NCID BN00501908。全国書誌番号:86039572。
- 秋田県公文書館編『系図目録I』(PDF) 1巻、秋田県公文書館〈所蔵古文書目録, 第4集〉、2001年3月。 NCID BA51889249。全国書誌番号:20149658 。
- 大内政之介『山入一揆と佐竹氏』筑波書林〈ふるさと文庫〉、1991年6月。 NCID BN0653245X。OCLC 26436463。全国書誌番号:91069492。
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 猿田 サルタ サタ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2713頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 太田亮『国立国会図書館デジタルコレクション 姓氏家系大辞典』 第3、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 常陸太田市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』常陸太田市〈常陸太田市史編さん史料, 19〉、1982年3月。 NCID BN12281310。OCLC 673627572。全国書誌番号:82044499。