献哀王后
献哀王后 皇甫氏(けんあいおうこう こうほし)は、高麗5代の王である景宗の第3王妃で、第7代穆宗の王母。諡号は応天啓聖静徳王太后[1]。千秋太后(せんしゅうたいごう)の別名を持つ[1]。
献哀王后 | |
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高麗王后 | |
別称 |
応天啓聖静徳王太后(諡号) 千秋太后 |
出生 |
乾徳2年(964年) 黄州 |
死去 |
太平9年1月3日 (1029年1月20日) 開京、崇徳宮 |
埋葬 | 幽陵 |
配偶者 | 景宗 |
金致陽(内縁) | |
子女 | 穆宗 |
父親 | 戴宗 |
母親 | 宣義王后柳氏 |
生涯
編集太祖の王子王旭と夫人柳氏との間に生まれる。同母兄に成宗(王治)、同母妹に献貞王后皇甫氏がいる。王室の風習に従い、外祖母である神静王后皇甫氏にちなんで自らも皇甫姓を名乗った。
従兄にあたる景宗の第3王妃となり王訟を儲けたが、景宗6年(981年)に死別した。兄成宗が即位後は太后となり、千秋宮に住んだ。王訟が即位して穆宗となった際、自らの居住宮にちなんで千秋太后と名乗るようになった。
献哀王后は母方の親戚にあたる金致陽と出会い、情を交わす関係となったが、このことが公然と知られるようになると宮中に混乱が起こった。成宗は金致陽を貴陽へ送ることで事態を収束させた。しかし穆宗の摂政となると、献哀王后は金致陽を呼び戻して右僕射(上奏を取り扱う部署の次官)兼三司事(当時の高麗で財政権と人事権を併せ持った職務)に任命し、多大な権限を与えた。
献哀王后は自らの本拠地である西京を優遇する政策を行った他、金致陽の出身地である瑞興に星宿寺を建てたのを始め、各所に道観や寺院を建設した。
穆宗6年(1003年)、献哀王后は金致陽との間に息子を儲けた。
穆宗12年(1009年)、康兆が政変を起こし、金致陽と息子は処刑されて献哀王后は流罪に処せられた。穆宗は廃位され、幽閉地に向かう途中で康兆の部下に暗殺された。これにより、献哀王后は政界において完全に失脚した。康兆らは王詢を王位に推挙し、王詢は即位して顕宗となった。
流罪から解かれた後、献哀王后は黄州に移り、そこで余生を送った。顕宗20年(1029年)に王宮に戻されて、崇徳宮において66歳で薨去した。墓所は幽陵である。
家族
編集脚注
編集- ^ a b 「献哀王太后皇甫氏, 戴宗之女, 生穆宗. 穆宗即位, 冊上尊號曰, 應天啓聖静徳王太后. 穆宗年已十八, 太后攝政, 居千秋殿, 世號千秋太后. 與金致陽通而生子, 欲以其子, 嗣王位. 時顕宗為大良院君, 太后忌之, 強令出家, 寓居三角山神穴寺, 時稱神穴小君. 太后屡遣人謀害. 一日, 使内人遺以酒餅, 皆和毒薬. 内人到寺, 求見小君, 欲親勸食, 寺有僧, 輒匿小君於地穴中, 詒之曰, “小君出遊山中, 安知去處耶?” 及内人還, 散之庭中, 烏雀食而即斃. 凡忠臣義士, 尤所忌憚, 多以非罪陷之, 穆宗不能禁. 十二年正月, 千秋殿災, 太后入長生殿後, 康兆殺致陽父子, 流太后親属于海島, 又使人弑穆宗. 於是, 太后歸居黄州者二十一年, 顕宗二十年正月, 薨于崇徳宮, 寿六十六, 葬幽陵」(『高麗史』卷八十八 列傳 卷第一)