猫尾城
猫尾城(ねこおじょう)は、福岡県八女市にあった日本の城(山城)。福岡県指定史跡[1]。
猫尾城 (福岡県) | |
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別名 | 黒木城 |
築城主 | 源助能 |
築城年 | 12世紀末 |
主な城主 | 黒木氏、辻重勝 |
廃城年 | 元和元年(1615年) |
指定文化財 | 県史跡 |
位置 | 北緯33度13分00.1秒 東経130度40分55.0秒 / 北緯33.216694度 東経130.681944度座標: 北緯33度13分00.1秒 東経130度40分55.0秒 / 北緯33.216694度 東経130.681944度 |
地図 |
立地・構造
編集矢部川と笠原川の合流点の東側、半島状に突出する標高240.1メートルの猫尾山頂にあった。本丸は南北・東西の長さがそれぞれ約56メートルおよび28メートルで周囲に犬走りが設けられ、東西と建物部分には石垣、南北には土塁が築かれていた。また本丸の西には南北18メートル、東西40メートルの馬場を挟み、約30メートル四方の二の丸があった。反対側の本丸東には空掘を挟んで三の丸が設けられた。また、追手門の北側と本丸の南東・北東隅の3か所に櫓があった。城主・黒木氏の屋敷は西側の矢部川と笠原川に挟まれた場所にあり、土塁によって二の丸と繋がっていた。
歴史
編集根占城主であった源助能が12世紀末に築いたとされる。助能の子・黒木定善は黒木荘を領し、これ以降黒木氏は代々猫尾城を本拠とした。建武3年3月8日(1336年4月27日)に足利尊氏は上野頼兼の旗下に入るよう荒木家有らに命じ、黒木城にいる南朝方の菊池武敏を攻撃させた。これによって当城は落城し、3月17日(5月6日)に頼兼の軍勢によって破却されている。当城はその後再建され、応安7年11月15日(1374年12月26日)には今川義範らの攻撃を受けて翌日に降参した。
天正12年(1584年)に大友義統は筑後へ反攻し、龍造寺氏についていた黒木実久の守る当城も攻囲された。7月20日(8月25日)には水源を止められ兵粮にも事欠く状態となったが、龍造寺氏の援将・土肥家実や馬場信貞の奮戦もあって戦況は膠着した。このため立花道雪らが8月19日(9月23日)に攻城に加わり、9月1日(10月4日)に陥落した。慶長6年(1601年)に筑後に移封された田中吉政は、当城に辻重勝を城番として置き、3,605石を領知させている。元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になったものと思われる。
脚注
編集参考文献
編集- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年
- 日本歴史地名大系 (オンライン版)