猪俣松五郎
人物
編集大住郡金目村の名主与右衛門の次男として生まれる。三郡共立学校(神奈川県立秦野高等学校と神奈川県立平塚農業高等学校の前身)を経て、東京神田の共学院で学ぶが、長男の死亡により、帰郷し、家督を継いだ。その後、1898年(明治31年)、金目村役場書記、1900年(明治33年)、収入役を経て、1905年(明治38年)、金目村村長に就任した。以後、1918年(大正7年)から1935年(昭和10年)まで4期村長を務めた。この間、金目村村会議員を6期、中郡会議員を2期務め、また金目村農会長、金目村耕地整理副組合長、中郡農会副会長、会長を歴任した。1923年(大正12年)の関東大震災後は、その復興、金目川拡張・堤防工事を実施した。また私立中郡盲学校、1902年(明治35年)創立の中郡立中郡農業学校(秦野高校と平塚農業高校の前身)、1909年(明治42年)創立の私立育英学校(秦野高校の前身)、1924年(大正13年)創立の中郡六カ町村組合立育英学校(私立育英学校の後身)の創立とその維持拡充に尽力し、また1926年(大正15年)の中郡二十六カ町村組合立奈珂中学校(組合立育英学校の後身)の創立にも尽力した。1935年(昭和10年)、4期務めた金目村村長を退任し、1943年(昭和18年)12月24日に死亡した[1]。
略歴
編集脚注
編集- ^ 神奈川県県民部県史編集室『神奈川県史 別編1 人物』(1983年、神奈川県弘済会)「猪俣松五郎」、神奈川県立秦野高等学校『秦野高等学校史』(ぎょうせい、1986年)72,79,89頁。