独孤 羅(どっこ ら、534年 - 599年[1])は、北魏末からにかけての人物。は羅仁。本貫雲中郡

経歴

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534年永熙3年)、独孤信の子として生まれた。独孤信が父母妻子を捨てて長安に入ったため、独孤羅は東魏に取り残されて高氏の虜囚となった。独孤信が宇文護により処刑されると、ようやく釈放されて、中山に寓居した。北斉独孤永業の一族として田宅を与えられた。北斉が滅亡し、楊堅定州総管となると、楊堅の妻の独孤伽羅が兄の行方を捜索させて独孤羅を見つけ出し、初めて対面した。579年大象元年)、功臣の子として楚安郡太守に任じられた。まもなく病のため辞職し、長安に帰った。580年(大象2年)、楊堅が北周の丞相となると、独孤羅は儀同大将軍の位を受け、楊堅の側近に仕えた。581年開皇元年)、隋が建国されると、使持節・上開府・儀同大将軍の位を受けた。11月、右武衛将軍に転じた。582年(開皇2年)、父の趙国公の爵位を嗣いだ。592年(開皇12年)、大将軍・太子右衛率となった。593年(開皇13年)、涼州刺史に任じられた。597年(開皇17年)、涼州総管に任じられた。599年開皇19年)2月6日、死去した。は徳[2]といった。

子女

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  • 独孤開遠
  • 独孤開明
  • 独孤開徹
  • 独孤纂(後嗣、河陽郡尉)
  • 独孤武都(河陽郡尉)

伝記資料

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  • 隋書』巻79 列伝第44
  • 北史』巻61 列伝第49
  • 隋使持節大将軍趙国徳公独孤君墓誌(独孤羅墓誌)

脚注

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  1. ^ 生没年は墓誌の記述にもとづく。『隋書』および『北史』では、独孤羅は仁寿年間に左武衛大将軍の位を受け、煬帝が即位すると蜀国公に改封され、しばらくして死去したとされている。
  2. ^ 諡は墓誌の記述にもとづく。『隋書』および『北史』では、諡を恭とする。