「蝦夷」の版間の差分
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{{Anotheruse|蝦夷(集団)|蝦夷(地域名)|蝦夷地}}
'''蝦夷'''(えみし、えびす、えぞ)は、[[日本列島]]の東方、北方に住み、
== 語源と用字 ==
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語源については諸説あり、中に[[樺太アイヌ]]の[[アイヌ語]]で「人」を意味する「''encu''」と同語源とするものもある。
古代の蝦夷ははじめ「'''毛人'''」と書いて「えみし」あるいは「えびす」と読み、7世紀から「蝦夷」と書かれるようになった。しかし、毛人や蝦夷にはえみしやえびすと通じる音がない。「毛」や「蝦」の字を用いたのは単なる音の転写ではなく、何らかの意味があると考えられる。ここで、毛人は蝦夷に体毛が多かったためだと解し、やはり体毛が多いアイヌと比べる説がある。蝦夷については、カイという音に通じる呼び名があったためとも、蝦(エビ)に似て髭が長かったためだとも推測される。ただし、これらは三説とも字を見て論じたもので、確かな証拠はない。蝦夷の「夷」の字は
[[平安時代]]後半頃から蝦夷を「えぞ」と読むようになった。読みの変化が指し示す集団の変化に対応すると考える説もある。
== えみし ==
古代の蝦夷(えみし)は、日本
「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一[[アイデンティティー]]は無かったと解するか、
蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、[[659年]](斉明天皇5年)の[[遣唐使]]と[[唐 (王朝)|唐]]の[[高宗 (唐)|高宗]]の問答が日本書紀にある。それによると、
[[7世紀]]頃には、蝦夷は現在の
蝦夷は平時には交易を行い、[[昆布]]・[[馬]]・[[毛皮]]・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりに[[米]]・[[布]]・[[鉄]]を得た。
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[[9世紀]]に蝦夷に対する朝廷([[関西]])からの征服活動は、[[岩手県]]と[[秋田県]]のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。こうして、東北地方では[[12世紀]]には蝦夷としての独立性は失われた。
蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、[[江戸時代]]から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を[[日本人]]の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、[[考古学]]からする文化圏の検討と、[[北東北
しかし、文献史学の情報、考古学による発掘の進展などは擦文文化の広がりや実態、[[続縄文時代|続縄文文化]]から擦文文化への、又擦文文化からアイヌ文化への移行過程がかなり複雑な様相を呈しており、前述の説ほど単純に割り切れるものではない事を浮かび上がらせつつあるため、単純にそのままの形では定説とみなされてはいない。従って『書紀』が語る東日本全域の蝦夷や、遡って[[縄文人]]・[[弥生人]]等との関係についての議論では、未だ確定的な説はない。
蝦夷を、現代の日本人につながる集団か、アイヌにつながる集団か、あるいはそれ以外の集団かに強引に帰属させる議論は無意味である。
[[Category:奈良時代]]
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