小倉到津球場
歴史
編集球場は1923年(大正12年)に完成。翌1924年(大正13年)に開場した[1]。当時の鉄道省(国鉄)門司鉄道局の所有施設で、1918年に創設された九州鉄道管理局(1919年門司鉄道管理局、1920年門司鉄道局に改称)野球部のホームグラウンドとして使われていた。ただし、球場の経営は九州電気軌道(九軌、現西日本鉄道)が行っていた[2]。
陸上競技場を兼ねており[3]、外野は右翼が125m、左翼が85mと本塁-右翼側に長い長方形をしていた[3]。
1925年秋から、門司鉄道局野球部と八幡製鐵所野球部との間の試合がこの球場で行われるようになった。両チームの試合は1927年から定期戦となり、「製門戦」として地元の名物となった。
1934年(昭和9年)11月26日に、この球場で日米野球の第15戦が行われ、全米チームが8-1で勝利した。7回裏にベーブ・ルースが125mの右翼スタンドを越える本塁打を放った記録が残っている[3]。当日は雨で、ルースの本塁打は『予告ホームラン』だったといわれる。
日本プロ野球としては、1936年(昭和11年)6月14日に大阪タイガース対東京セネタースを皮切りにオープン戦が16試合行われたが、公式戦の開催実績はない。球場が廃止された明確な時期は不明だが、第二次世界大戦中とみられる。球場廃止後は国鉄→JR九州の到津宿舎となった。同地[4]には1989年(平成元年)にJR九州により球場跡地を示す記念碑が設置されている。
後にJRのリストラで到津宿舎も廃止された。跡地には2012年(平成24年)2月24日から1週間をかけて、大和情報サービスによってショッピングセンター『アクロスプラザいとうづ』[5]が開業した。
プロ野球オープン戦開催実績
編集- 1936年6月14日 大阪タイガース 6-4 東京セネタース
- 1936年7月25日 東京巨人軍 4-2 大阪タイガース
- 1936年7月26日 東京巨人軍 0-8 大阪タイガース
- 1937年8月1日 大阪タイガース 6-8 ライオン軍
- 1938年7月31日 大阪タイガース 6-3 名古屋軍
- 1940年1月14日 大阪タイガース 9-3 南海軍
- 1940年9月1日 大阪タイガース 2-1 名古屋金鯱軍
- 1940年9月2日 阪急軍 3-2 イーグルス
- 1940年9月2日 東京セネタース 3-0 南海軍
- 1940年9月2日 東京巨人軍 1-2 大阪タイガース
- 1940年9月3日 名古屋軍 3-0 ライオン軍
- 1940年9月3日 東京セネタース 1-0 名古屋軍
- 1940年9月3日 大阪タイガース 3-1 阪急軍
- 1940年9月6日 名古屋軍 2-0 阪急軍
- 1940年9月6日 大阪タイガース 1-0 東京セネタース
- 1941年3月28日 阪神軍 11-5 阪急軍
脚注
編集- ^ “西鉄ライオンズ・思い出の球場 小倉到津球場”. にしてつWebミュージアム. 西日本鉄道. 2018年8月26日閲覧。
- ^ “黎明の地 戦火に消え、野球熱野武士軍団へ…小倉到津球場<下>”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2009年1月14日). オリジナルの2010年11月17日時点におけるアーカイブ。 2018年8月26日閲覧。
- ^ a b c “ベーブ・ルース特大弾、小倉熱狂…小倉到津球場<上>”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2009年1月13日). オリジナルの2010年12月8日時点におけるアーカイブ。 2018年8月26日閲覧。
- ^ 国道3号戸畑バイパスと福岡県道270号竪町到津線の上到津二丁目交差点角。すぐ裏側には紳士服はるやま小倉到津店がある。
- ^ (仮称)アクロスプラザいとうづ 届出事項の概要北九州市ホームページ